ニューヨークなんて怖くない

絶対に窓やドアを開けたりしないのであれば、通ってやってもいい

浅井さんのことを書いていて思い出した本がある。それが、太田裕美の「ニューヨークなんて怖くない」。

ところが、この本も本棚にない。家人の実家に預けてある段ボールに入っているのだろうか。自分が編集した本の中でも気に入っている一冊だけに、とたんに気になりだしてしまった。

太田裕美の本を手掛けたのは、1976年発売のフォト&エッセイ「まごころ」だ。本人に書く時間などなく、ライターが原稿を書いたのだが、マネージャーが気に入らない。ほかのライターに頼む時間もお金も、余裕がない。

ひょうなことから、ゴーストライターとしてデビュー(?)することになってしまった。出版社の社員だから、もちろんノーギャラ。

そんな彼女がタレント活動を休止して、ニューヨークへ8ヵ月留学していたころのことを書いた「八番街51丁目より」が、第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞した。

ニッポン放送編成部の吉村達也さんから頼まれて、その賞の下読みの審査員を1回目からずっと務めていたこともあり、ニューヨーク本の企画を考えた。そうして実現したのが本書である。

タイトルを見て「ニューヨークは怖いの?」と思った人もいるかもしれないけど、1980年代前半のニューヨークには怖い場所がたくさんあった。

実際の撮影時には、アベニューAとかBとか、イエローキャブの運転手はこう言った。

「絶対に窓やドアを開けたりしないのであれば、通ってやってもいい」

「行く」のではなく「通る」だけならいい、というわけだ。

彼女に27歳の目線で見たニューヨークを書いてもらって、写真は浅井愼平でいこう、となったのだが、二人のスケジュールがどうしても合わない。

浅井さんから、アシスタントをしていたカメラマンを紹介され、4泊か5泊だったか、とにかく強行スケジュールでニューヨークを駆けずり回った。

結局、浅井さんの写真はカバーと本文で2カットか3カット使っただけ。それでも、本の出来栄えは良かった、と自画自賛したい。

1980年代前半のニューヨークで一人暮らしをした太田裕美の体験談が、12の文章でつづられている。

いま読み返したい、と思っても、本棚に本がない。

その当時のニューヨークは、街中のいたるところが落書きだらけ。地下鉄もそうで、ホームへ降りる階段のところにホームレスがいたりするのを見たら、怖くて、怖くて、とても乗る気にならない。

5番街、パーク、マディソンといったミッドタウンでは夜ともなれば、売春婦たちがたくさん立っていた。

いまからは想像もできないほど、ニューヨークは怖い街だった。だから、そのまま本のタイトルにしたのだが、芸がないと言われればその通りだ。

編集者をやっていてよかったのは、ずいぶん外国に行けたことだ。

アグネス・チャンの本では、ほとんど凍ったナイアガラの滝を見た。このロケの帰りのロサンジェルス空港で、あとで「疑惑の銃弾」で騒がれた三浦和義と知り合った。

荷物の重量オーバーで空港職員ともめていた彼は、僕らが出版社の人間だとわかると、妙になれなれしく名刺を出してきた。

名刺を見ると、会社の住所が近い。東京で会おうよ、と言われて別れた。そのあと、偶然に何度か街角ですれ違ったが、一緒に食事をするまでにはいたらなかった。もし食事をして仲良くなっていたら、殺人の依頼でも受けたのだろうか。

このロケは最初から、みんなと別れて、一人だけハワイで2泊することにしていた。チケットを手配してくれた代理店の人から「ハワイへ寄ってきたらいいじゃない」と言われたからだ。

ホテルはワイキキのはずれにあったので、ワイキキの海岸で泳ぐこともなく、街をぶらついてはホテルのプールで過ごした。楽しかったか、と聞かれれば、素直に「はい」とは言えない。

帰りの便はホノルルを夜の12時過ぎに出る。空港へ行くと、席がない、と言われた。リコンファームをしていないので、席を確保していない、というのだ。

最後の乗客として飛行機には乗れたが、最初から最後まで、楽しさを見いだせない初ハワイだった。

ちなみに、ニューヨークは漢字で書くと、当たり前だが「入浴」ではない。「紐育」と書くが、これは中国語での漢字表記「紐約」の約(ヤク)が、日本語の漢字表記では育(イク)となり「紐育」となった。

[BOOK DATA]

「ニューヨークなんて怖くない」
作者:太田裕美
単行本:シンコー・ミュージック1983年1月