食卓を囲んだことのない中国人とは絶対取引をしない
これは、矢作俊彦の最新作である。
最新作と言っても、奥付を見ると2014年11月25日とあるから、もう5年近く前になる。
もっと小説を書いてほしいと思っている数少ない作家のひとりなのに、彼はなかなか筆をとろうしない。
日活映画で描かれていたころの横浜を書いてほしい、いまの横浜も書いてほしい、と願うのは、ホテルニューグランドのバー「シーガーディアン」が姿を変えてしまったいま、かなわぬことなのであろう。
1972年、短編小説「抱きしめたい」をミステリーマガジンに発表して、筆名・矢作俊彦として小説家のデビューを飾ったのだが、彼と初めて会ったのはそれより3年ほど前だ。
東横線の白楽駅前に、一軒のスナックがあった。名前はダグウッド。
マスター夫妻は、アンダーグラウンドシアター自由劇場の芝居に出演していた役者だった。奥さんはモデルでもある。
ひょんなことから、その店を手伝うことになり、そこで彼と会う。当時は、ダディ・グースという漫画家をやめていたので、本名のH.Mで呼んでいた。
彼はとにかく物知りというか、十九歳とは思えない風変わりなたたずまいを見せていた。お坊ちゃんでもあったが、妙に大人びてもいた。
そんな彼が映画を撮る、という。すでに脚本もできていて、カメラマンも決まっていた。
そのヒロインを新人モデルであった、マスターの義理の妹がすることになり、彼女に頼まれて撮影に同行した。
残念なことに、内容はほとんど覚えていない。
映画が完成したかどうか、これもはっきりしない。
脚本・監督・主演(たぶん)の幻の映画、見てみたい。あのころの彼女にも会えるだろうから。
不思議な出会いをした彼が、矢作俊彦としてデビューしてから、一度だけ仕事をお願いした。
「大学マガジン」という雑誌だった。女優の小林麻美と会って、彼女の写真と彼の文章で構成する企画だった。
撮影場所は、横浜の根岸台にある旧・根岸競馬場。
この雑誌もいま、手元にはない。
彼がどんな文章を書いたのか。おぼろげに覚えているのは、小林麻美を湘南の海を見ている美少女にたとえていたことくらいである。
時の流れはあまりにも早い。
矢作俊彦も60代最後の年、小林麻美も60代半ばすぎ、そして私も古希。
「フイルムノワール/黒色影片」は、神奈川県警の刑事だった二村永爾が主人公の物語である。
このシリーズは、単行本として「リンゴォ・キッドの休日」(早川書房1978年)、「真夜中へもう一歩」(光文社1985年)、「ロング・グッドバイ」(角川書店2004年)と続き、今回が10年ぶりの登場である。
そして、文芸誌「新潮2018年1月号」で「ビッグ・スヌーズ」がスタートした。
「フイルムノワール/黒色影片」の二村永爾は、神奈川県警の嘱託。ある女優の頼みを聞き入れ、失踪した若い男優と幻の映画フィルムを追って、香港へ旅立つ。
その映画とは、女優の父が亡くなる前に撮った、殺し屋が主人公の幻の黒色影片(暗黒フィルム)。
多種多彩の登場人物。複雑に絡み合う人間関係。そして、殺人事件。
帯に「日活映画100年記念 特別出演 宍戸錠!」とあるように、現役の俳優まで物語を彩っている。
矢作俊彦の小説は、華麗な比喩を使った文章が特徴のひとつであり、これが著者のこだわりでもある。
今回、再読して感じたのは、読み飛ばせない文章の多さだ。一度では頭に入らず、何度も読み返す。
読み手の読解力は衰えていても、著者はいつまでも若さを保って筆を躍らせている。いや、パソコンを打ちまくっているのか。
いつものことだが、セリフも快調だ。少しだけ挙げてみる。
……43ページまでで、これだけある。
本作品はまさに、本人が言う“僕にとってハードボイルドとは「街をさまよいながら人々にインタビューするホラ話」”なのだろう。
読みながら、思わずうなずいたり、笑いだしたり、首を傾げたり、前に戻って読み返したり、考えさせられたり……などなど、いろいろな楽しみ方、苦しみ方を体験させられた。
月刊誌「新潮」は未読だが、著者の古希を待たずに完成させてほしい。また分厚い単行本と格闘する日を楽しみにしている。
わからないことがひとつ。「リンゴォ・キッドの休日」の最初に書かれている「Fû-Mei」って、何のこと? さっぱり。不明です。。
[BOOK DATA]
「フイルムノワール/黒色影片」
作者:矢作俊彦
初出:「新潮」2010年1月号~2012年9月号
単行本:新潮社2014年11月25日 発行