このホテルは今でも
私の夢の中に生き続けている
作家・伊集院静が誕生するまで、7年間にわたり暮らしていた伝説の「逗子なぎさホテル」での日々がつづられている。
大正15(1926)年に湘南唯一の洋式ホテルとして建てられ、平成元(1989)年に建物の老朽、時代の流れには勝てず、昭和の終焉とともに幕を閉じた。
彼はこのホテルで、1978年から1984年まで7年余りを過ごした。
本書の最後で、彼はこうつづっている。
小説ではなく随想であるだけに、ここには作家・伊集院静の原点があるように思う。
彼の小説は何冊か読んでいる。好きなものを順不同に挙げると、「浅草のおんな」「白秋」「潮流」「ジゴロ」「ピンの一」……。
彼との不思議な接点を感じている。1950年2月9日と早生まれの彼とは、同級生になる。
彼は19歳の時、本牧の小港にあった口入業の事務所に転がり込んでいた時期がある、と本書で書いている。
同じころ、私も本牧の飯場で働いていた。
雇われていたのは楠原組だったと思うが、記憶は定かでない。最初のうちは、東神奈川の駅前に立ってバスを待ち、本牧まで連れていかれた。そのうち、直接、本牧へ行くようになって、そこで玉掛け作業員の資格を取ったこともあり、学生なのに正社員。
辞めたときは、失業保険までもらっている。
本牧は、彼にとっても私にとっても、懐かしい場所だ。彼は、本書の中でこう書いている。
しかし、あの時代の建物はすべて失せ、雀荘も、ベトナム帰還兵目当てに娼婦たちが並んでいた通りもあとかたもなく消えていた。
街がそっくり消滅していた。
――あの男や女たとはどこへ行ってしまっただろうか……。”
そして、こう続けている。
車中で私は、あのまま自分が、あの街に居残っていたら、私自身も消滅してしたったのではという恐怖感に襲われた。
その恐怖感がレクイエムに変容して、二十年後に私は『ごろごろ』という小作品を執筆した。”
「なぎさホテル」はプロローグと十五章の随想で構成されている。彼の記憶力のすごさに驚く。
作家は、記憶力に優れている。少なくとも、私が知っている作家はみんなそうだ。
本書には、私も知っている人がイニシャルで登場している。同じような時期に知り合っているが、彼ほど深い付き合いにはならなかった。
NHKの滝大作ディレクターも登場する。滝さんとは、浅井愼平さんと一緒に大学ラグビーを観戦した後、赤堤の浅井宅で何度かラグビー談義をした覚えがある。
滝さんのことを彼はこう書いている。
“滝さんは私が逗子で暮らしている話をしたら、いいね、チョウさん、毎日、海の描写をしたらいい。それだけでもう充分だよ、と助言してくれた。その助言に従い、毎日でなくとも海景をノートに記したことが、後に海の描写に役立ったのかもしれない。”
彼はこのホテルに暮らした7年余りが、一番本を読んだ時期であり、読書日記なるものを付けた、と書いているが、それが今、私の身体にどう残っているのかわからない。むしろ邪魔になっている気もする、と結ぶ。
そして、オリジナリティーについて書いている次の文章に、私は強い共感を覚えた。
“オリジナリティーは文章(文体と言ってもいいが)にあらわれるものだ。小説の主題(テーマ)について、いろいろ語られるとき(当人とは関わりのない処で)があるが、それもすべて文章にあらわれている、と私は考えている。その点は画家の筆致に似ているかもしれない。文章を確立させるのは論理的なものではなく、やはり生理的なものではなかろうか。だから小説の文章は、思想家、哲学者、科学者などが箋る文章と、そこが決定的に違うのだろう。その上、厄介なことに文章が、或る域に入ることはあっても、到達することはないのだ。”
小説を書かない身としては、彼が言わんとする、本当のところはわからないのかもしれない。だが、好きな小説を読むと、その文体に魅かれている自分がいるのは確かだ。
逗子なぎさホテルには、一度だけ宿泊してことがある。友人夫婦と4人、ひとつの部屋で語り明かしたとき、伊集院静氏もこのホテルにいたのだろう。
人生に「もし」はないけど、あの時に出会っていたら、言葉を交わしていたら……と思ってしまう。
いつでも会わせるよ、と言ってくださった長友啓典さんは、もういない。縁の不思議さを感じている。
家人の運転する車で134号線を逗子に向かって走ることがよくある。ほとんどが葉山にコロッケを買いに行くのだが――。
なぎさホテルが建っていた場所を走りすぎるとき、ふとセンチメンタルな気分になっている自分に気づく。
そういえば、初めて泳いだ海は、逗子の海だったなあ。
いろいろなことが思い出された一冊の「なぎさホテル」を読むと、作者の想いと、よき昭和の想いが重なって見えた。感謝である。
[BOOK DATA]
「なぎさホテル」
作者:伊集院 静
初出:「草思」(草思社刊)2001年6月号から2002年9月号まで連載。
単行本:小学館2011年7月6日 初版第一刷発行
文庫:小学館2016年10月6日