サリエルの命題

新型インフルエンザの特効薬は、

 五万人分しか備蓄していない⁉

新型コロナウイルス感染のニュースばかりが、新聞やテレビで報道されているので、1月末から立春にかけて、2冊の本を読んだ。その1冊が、この「サリエルの命題」である。

実にタイムリーで、というか、先見性のある作家、楡周平ならではの小説だ。米国企業日本法人のコダック(写真業界の大手)在職中に、1996年に宝島社から「Cの福音」を上梓して、作家デビュー。

この小説が面白かったので、ずっと読み続けている作家である。

今回は、突然に発生した新型インフルエンザを題材にして、日本の医療制度の欠点を鋭く描いている。

過疎化の街を封鎖できても、都市部にまで感染が及んだら……と考えると、新型コロナウイルスにあたふたする現状を思い浮かべてしまう。

一般的にインフルエンザと呼ばれるものは、毎年流行する季節性インフルエンザのことで、日本では毎年10人に1人くらいが感染。原因となるインフルエンザウイルスはA型・B型・C型の3種類がある。

予防接種ワクチンが効果を発揮するまでには、約2週間かかる。ただ、接種すれば感染時の重症化を防ぐことにはなるが、完全に感染を防げるわけではない。

ここまでは、なんとなく知っていた。だが、新型インフルエンザとなると、あやふやな知識しかない。本を読みながら、調べてみた。

新型インフルエンザは、A型インフルエンザが変異して起こす感染症。ほとんどの人が免疫を獲得していないので、世界的大流行、いわゆるパンデミックを起こす恐れがある。

ワクチンには2種類ある。

新型インフルエンザの発生後に新型インフルエンザウイルスを基に製造されたワクチンが「パンデミックワクチン」。厚生労働省は、発生から6カ月以内の製造を目標としている。

発生する前の段階で、パンデミックを引き起こす可能性のあるウイルスを基に製造したワクチンが「プレパンダミックワクチン」。わが国ではH5N1亜型の鳥インフルエンザ)ウイルスを基に製造しているが、亜型が異なるインフルエンザには有効性が不明。

こうした予備知識を得たうえで、読み進めていった。

本書の舞台設定は、2019年の冬。

別名「光の街」と称されるロチェスター。かつて世界最大のフィルムメーカー本社があった街で、悪魔のウイルス「サリエル」がつくられた。

つくったのは一人のアメリカ人。彼は言う。

「サリエルは実験室で作られたウイルスだ。自然界ではまだ生まれてはいない。だが、出現の可能性は否定できないことが分かった。となればだ――」

「感染は瞬く間に世界に広がって行く。世界中でワクチンの需要が一気に発生するんだ。いずれの国も国内でワクチンを製造するしかないわけだが、その間に人がばたばたと倒れて行く。(中略)人は先を争って病院に押しかける。しかし、全員に対応できるワクチンはない。となれば何を以って優先順位を決めるのかね? カネ? 医師や看護師の身内、つまりコネか? それとも有力者の紹介かね?」

日本では、優先度の高い職種を明記したガイドラインが公表されている、という。

本当なのか? と、看護師である家人に聞くと、あっさりと「そうですよ」と言われた。

知らなかった。おぼろげに聞いたことがあるような気もするが、パンデミックワクチンを接種できる優先順位が決まっているのだ。

物語なので、この悪魔のウイルス「サリエル」は、日本でその姿を現すことになる。

このあたりのストーリー展開には好き嫌いがあるだろう。

いくつもの糸が絡みあって物語が進んでいくが、このあとは新型インフルエンザが発生したときの日本政府の対応が細かく描かれていく。

帯に大きく書かれている「少子化は正しい。問題は長寿だ。」のキャッチフレーズの意味が明らかになる。

古希を超えた身としては、自分に置きかえたとき、どうするか――。

我が身より「将来ある者を優先せよ」と言えるか――。

身内なら、間違いなく、そう言える……と思う。

パンデミックは回避できるかどうか。本書を読めばわかるが、最後に「サリエル」が意味を持つ。

著者は「サリエル」をこう解説している。

サリエルは、神の前に出ることを許された大天使の一人で、医療に通じ、癒す者とされている一方で、一瞥で相手を死に至らしめる強大な魔力、『邪視』の力を持つことから、堕天使であるとされている。

もう一冊読んだのは、新型コロナウイルスの発生以来、テレビで毎日のように見るメガネの女史が書いた本だ。

岡田晴恵著「H5N1」。サブタイトルに「強毒性新型インフルエンザウイルス日本上陸のシナリオ」とあるように、こちらの本のほうがパンデミックの様子がよくわかる。

2007年のダイヤモンド社から刊行された本だが、読んだのは幻冬舎文庫。平成21年発行の本だが、いつ買ったのか覚えていない。

文庫本のあとがきにある日付は2009年6月。

著者はこの時点で、いち早くパンデミックとなる新型インフルエンザを取り上げている。しかも、強毒性のあるH5N1ウイルスの鳥による流行が日本で発生するのだ。

物語としての出来はともかくとして、あとがきから少しだけ抜粋してみる。

本書で趣味レーションとして書いたストーリーは、具体的な準備がほとんど進んでいない現状のまま手をこまねいていて、国内に新型インフルエンザが流行すれば、まさにそうなりうるストーリーなのである。しかし、新型インフルエンザ出現から最初の2ヶ月を予想したにすぎない。その後これが社会機能、経済活動にどのように影響してくるか、その回復にはどの程度の時間と資金が必要となるかについては、著者の想像力と専門知識を超える問題である。これらについては、各分野の専門家の方々に英知を傾けていただきたいと念願する。

著者は「日本の感染症に対する危機意識は、あまりにも低い」と嘆く。

いまの政府の対応を見ていると、危機意識は2009年から何も変わっていないことに気づく。

これからも新型ウイルスによる感染症がいつ発生するとも限らない。

次世代を担う者たちにとって、実に大変な世の中になったものである。

「サリエルの命題」の帯には「助かる命に限りがあるなら、将来ある者を優先せよ」とある。その通りだ、と思うのは私だけだろうか。

後悔することのないように、日々を過ごしていくしかないのだろう。

それにしても、東京オリンピックの影響を心配している報道を見るにつけ、本書にも書かれているが、まったく違ったことを思い浮かべてしまう。

当初、2020東京オリンピックは7000億円の予算でできると言われ、世界一コンパクトな大会にするという話だった。しかし、現実は3兆円上回るという。

これが我が国の現実だ。危機意識もないが、予算管理もできない。

すべて他人事なのか――。

[BOOK DATA]

「サリエルの命題」
楡周平
初出:小説現代2017年6月号~2018年5月号、2018年7月号~9月号
単行本:講談社2019年6月18日 第一刷発行