テストマッチは国と国との〝戦争〟である。
スポーツという、ラグビーという手段を使った
〝平和的戦争〟である。
古い本である。初版の発行が1991年12月20日。
やっと見つけた。どこにしまったのか、まるで覚えていなかったどころか、本のカバーを見ても、内容をまったく思い出せないほどである。
その謎は、本を読んでみてわかった……。
著者の宿沢広朗は、1989年3月からラグビー日本代表の監督を務めていた。古いラグビーファンなら、監督の初試合でスコットランドを破ったことを覚えている人もいるにちがいない。
この本は、そんな人たちにとってはたまらない。ただ、ラグビーに興味ない人にとってはつまらないかもしれない。
ここでは、ラグビーの話ばかりしていくことになりそうだ。長くなるかもしれない。最初にお断りしておくが、当時のラグビーへの思いが強すぎて、ひとりよがりな文章になるだろう。
まず、彼の略歴を簡単に書いておく。
1950年生まれ。早稲田大学ラグビー部で1年生からレギュラー。ポジションはスクラムハーフ。1971年、72年と大学選手権・日本選手権を連覇。4年のときはキャプテンを務めた。
2年生のときに日本代表入り。代表キャップ3だが、スクラムハーフとしての評価は高い。
1973年、政治経済学部を優秀な成績(「優」が20以上)で卒業。ラグビー部のない住友銀行に入社。75年の英国遠征を最後に現役を引退した。
77年末より7年半、ロンドン支店に駐在。
日本代表監督を務めることになったときの肩書は、資金為替部上席部長代理。俗な言い方をすれば、エリート中のエリートである。
宿沢本人は、ジャパン監督の依頼がきたときのことをこう書いている。
「たぶん、銀行がOKをださないだろうな」
「何かできるのでは……」
という相反することだった。〟
銀行はひとつだけ「私自身にやる気があれば」という条件付きで了解したと書く。そのとき、初めて自分自身の意志を確認した――と。
宿沢に課せられた使命は、第二回ワールドカップのアジア・太平洋地区予選に勝ち、出場権を得ることだ。
相手は三か国。前年のアジア大会決勝で敗れた韓国、日本代表のノホムリ、ラトゥの母国トンガ、未知の西サモア――このうち二か国だけが本大会に出場できる。
しんどい話であることは容易に想像できる、と宿沢は書いている。
①外人に対して通用する何かを持っていること。
②ディフェンスが強いこと。
この二点である。〟
本を読み始めてすぐに気づいたのは、宿沢の考えが決して古くないということだ。いくつか挙げてみよう。
・バックスの基本的な考え方は“接近してすれちがい、突破する”。
・“走れてスクラムが強い”プロップが理想だが、いまのジャパンにはスクラムが強いだけのやつが必要だ。。
・スクラム、ラインアウト、モールの中で、試合に勝つためには最低ひとつは相手よりまさっていなければならない。
・ロックのようなフランカーがほしかった。
・若い選手を育てながら使う。
①オリジナリティを持つこと。
②必ず完成させてから判断すること。〟
日本にもオリジナリティはあった。ショート・ラインアウトとか、接近・展開・連続のラグビーとか。
コピーのままでは本物に勝てない、と宿沢は強調する。
そして、一度決めた戦法(および戦略、サインプレーなど)は完成させることが重要だ。途中であきらめてはいけない、と念を押す。
「理論重視というのは私のジャパンの基本だ」と言い切る。
そして、スコットランド戦に勝つために、戦法の柱はディフェンスの強化、組織的防御網の再構築にある、と断言した。
そのためには、情報は重要な要素である、と。
①情報の収集。
②情報の分析。
③情報の活用(=分析)。〟
なんだか、ビジネス書を読んで引用しているような気分だ。
さすが、為替ディーラーで名を成したことだけのことはある。
こう書いていくと、きりがない。ラグビー指導者はもちろんのこと、ラグビー選手にはぜひ一読をおすすめする。ラグビー・ファンも読んでおくと、試合観戦が面白くなることは間違いない。
ということで、スコットランドに28対24で勝利して、予選はトンガ、韓国を破り、ミニ・オールブラックスの西サモアには敗れたが、本大会出場を決めた。
ここまでが本書の半分以上を占めている。そして「本当のラグビーを楽しむために」という章が続き、201ページから「ワールドカップ監督日記」が230ページまで。
このたかだか30ページのために、宿沢監督に同行してイギリスに行くことになったのだ。
いまさらながら、なんとももったいないというか、贅沢な取材旅行だったと驚いている。
当時、浅井愼平さんと設立したネットワークという会社で一緒に仕事をしていた星忠義が、宿沢監督と早稲田大学ラグビー部の同期だった。ロックの選手だった星は卒業後、博報堂に入社。
その縁で、本を作ることになったのだと思う。どうも、あやふやな記憶しかないのは、私はその年の9月から三カ月、会社を休むことにしていたからだ。
息子は小学4年生、娘はまだ4歳。二人を南フランスの学校(フレネという自由学校)へ留学させることにしたのである。
フランスに留学経験のある母親の希望だった。それに賛成して、8月末に全員で南フランスへ――。
この話を書き出せば、一冊の本になるだろう。
だが、今回はワールドカップである。
宿沢監督にインタビューして、原稿をまとめてほしい、という話だった。ワールドカップに帯同して、合い間で話を聞くという計画だ。
ニース空港からロンドンのヒースロー空港に向かった。
星との待ち合わせはどこだったか。はっきりとは覚えていない。おそらく、ロンドンのホテルだっただろう。
ロンドンに着いたのは、何日だったか――。
誕生日をニースで祝ったように思うから、9月24日以降だ。
最初の試合がスコットランド戦で10月5日。場所はスコットランドのエジンバラ。ロンドンからは飛行機で移動した。これは確かだ。空港へ向かう車で見た景色を思い出した。
ということは、10月1日にロンドン着。ホテルで2泊。10月3日にロンドンからエジンバラへ移動。というのが正解かもしれない。
4日はエジンバラ城を見学した。美術館も行ったけど、宗教画ばかりで面白くなかった。
10月5日、スコットランド戦。スコットランドのホームであるマレーフィールド・スタジアム。大観衆。5万2千人。エジンバラの人口は50万人だから、単純計算すれば十人に一人が見に来ていることになる。
宿沢はこう振り返る。
残念なのは、後半10分ぐらいは、せり合っていって最初に得点すればと思ったが、後半開始早々攻めていたボールを奪われてトライされてしまった。10点以内の差であれば緊張感が維持できる。30点とられたところでコンセントレーションが失われた。
47対9というのはフェアーな結果であろうか。ジャパンが完璧な試合をしたとして、それでも30対15ぐらいの負けであろう。力の差があった。〟
この試合はほとんど記憶にない。でっかいスタジアムだったことだけを覚えている。
次のアイルランド戦は中三日だ。アイルランドのホームグラウンドであるランズダウン・ロード。
10月9日。朝からの雨は上がったが、平日のナイトゲームにもかかわらず、5万人近い観客が集まった。
これも宿沢の文章を引用しよう。
後半はアイルランド、1トライ、3PGの13点に対してジャパンは2トライ、1ゴールでの10点。試合を通してアイルランド4トライ対ジャパン3トライであったが、日本の反則によるPGを四つ決められている。
モール、ラックでのボール獲得数はほぼ互角でたしかに“戦って敗れた”という実感はあった。取られるべくして取られたトライもなかっただけに、勝ち試合を逃がしたという気がしないでもない。
しかし一度もリードできなかった。やはり負けゲームであろう。〟
口惜しさがあふれている。
16対32の点差ほどの差はないと感じた。当時のトライは4点(いまは5点)、コンバージョンゴールが2点、ペナルティゴール、ドロップゴールが3点である。
ちなみに、なぜトライと言うのか。
この“try”は“挑戦する”という意味のトライ。昔はトライしても得点にはならず、そのあとのキックを決めれば勝ちというルールだった。つまり、勝ち負けを決めるキックに挑戦する権利を獲得するということだったわけだ。
のちにトライにも点を与えることになり、たとえばトライ0点、キック7点だったのが、トライを5点とすると、その5点はキックの7点の中に転換(コンバージョン)されていることになる。ちょっとややこしい説明で申し訳ない。
話を戻そう――(こういうとき「閑話休題」という言葉を使うのかな)。
いくつかの悔いが残る。あれをしておけば良かった、というたぐいのものだ、と宿沢は語る。
吉田義人が70メートルの独走トライを決めた瞬間、スタンドは総立ちとなった。すごいトライだった。それ以後、吉田にボールが渡ると、スタジアムがワーッという声援に包まれたのを思い出す。
試合後、グランドへ降りてみた。思わず、寝っ転がっていた。ふわふわの芝生だ。驚いた。
その夜はパブで飲んだ。アイルランド人にからまれた。何を言っているのか、英語がよくわからなかった。
10月10日。北アイルランドへ移動。ジャパンのメンバーと同じ飛行機だった。プロペラ機で、乗っている間ずっとゴーっというすごい音がしていた。
ベルファストの街。戦車が走っていた。その街に、マクドナルドが開店した日だった。
アイルランド共和国と北アイルランド(英国)の国境はものものしかった、と宿沢は語る。
この日、初めて宿沢監督とのインタビューができた。
もう一日がいつだったか覚えていないが、2日間だけのインタビューで書いた原稿が、おそらくスコットランド戦とアイルランド戦の話だったと思う。
3戦目はジンバブエ。10月14日。北アイルランドとはまったく関係ない2チームの試合に、たくさんの観客がつめかけていた。
ラベンヒル競技場は、第一次、第二次世界大戦のラグビー関係者の戦没者のためのメモリアルグラウンドで、歴史を感じさせるスタジアムだ、と宿沢は書くが、これまでの2つのスタジアムと比べると、ローカルなグラウンドという雰囲気だった。
試合前のミーティング。宿沢はこう語る。
吉田の真剣な目つきは刺すように痛かった。
「ジャパンとジンバブエでどちらが勝とうという意欲が強いかで今日の勝負は決まる」
それだけ言うのがやっとであった。〟
前半は16対4。ボールを圧倒的に支配しているのに、攻めきれないでいた。
後半は一方的になった。80分間攻めまくった。36対4。
52対8でワールドカップ初勝利。ノーサイドのホイッスルが吹かれると同時に、観客がグランドに殺到した。選手は身動きがとれない。
監督、宿沢弘明。主将、平尾誠二。いいチームだった。
翌日ロンドンへ戻ると、すぐにホテルへ缶詰めになった。インタビューしたテープを聞きながら、まる2日間寝ずに書きまくった。
それが監督日記のところだと思うのだけど、読んでみると、どうも違和感がある。自分が書いた文章とは思えないところがあるのだ。
それよりも、この本を読むのは今度が初めてなのではないか、と思った。だから内容を覚えていなくて当然というか、覚えているはずがないのだ。
妙に納得した……。
それにしても、思い出すのはロンドンの物価の高さ。カシミアのセーターを買いたかったが、とても手が出ない。古着屋で、そのセーターより安いカシミアのブレザーを買った。
ロンドンでの食事は、日本料理は高いというので、インド料理と中華料理を食べた。どちらも美味しかった。
ワールドカップでの試合を生で見れたことが、何よりも嬉しかった。
扶桑社の編集者が来ていて食事をしたり、ゴルフにも行ったり、けっこう楽しかった。
帰りはヒースローからニース。お土産として釜めしの道具一式を3セット手荷物で機内に持って入ったのが、いい思い出ではある。
一度も読むことなく、押し入れの奥の、また奥にしまわれていた本には、こう書かれている。
「この本を二十一世紀のラガーマンに捧ぐ」と。
宿沢広朗は2006年56歳で、平尾誠二は2016年53歳で、二人ともこの世とおさらばしてしまった。若すぎるよね。
昨年のワールドカップ日本大会を見せてあげたかった。
できれば、ラグビー談義の本を作りたかった。合掌。そして献杯。
長い文章になってしまった。それでも書き足りなさが残っているような気分でいる。考えても仕方がない。
こんな夜は、南アフリカ戦のゲームを見ながら酔いしれるのもいいか。
[BOOK DATA]
「TEST MATCH」
宿沢広朗
単行本:書き下ろし。講談社1991年12月20日 第1刷発行
文庫:TEST MATCH―宿沢広朗の「遺言」と改題。講談社2007年8月23日