伊豆の踊子

峠を越えてからは、

 山や空の色までが南国らしく感じられた。

読んだことがないのに、読んだ気になっていた小説がいくつかある。そのひとつが、この「伊豆の踊子」だ。

いまの時期に、なぜ読んでみようと思ったのか――。

コメディアンである志村けんの死にショックを受けたからだ、と言ったら、あまりにも唐突だろうか。

だが、衝撃的なニュースにふれ、同世代ということもあり、一日中ボーっとしていた。次の日になり手にした本が「伊豆の踊子」である。

志村けんと「伊豆の踊子」には何の関係性もない。ただ、この本から、何か元気をもらえそうだと思ったからだ。

もしかしたら、読んだことを忘れてしまっているだけかもしれないと思うところもあったが、読み進めていくうちに気づいたことがある。ストーリーをおぼろげながら知っているのだった。

おそらく、映画「伊豆の踊子」を見ていたからではないだろうか、ということしか思い浮かばない。

しかし、冒頭の文章だけは記憶に残っていた。

〝道がつづれ折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。〟

川端康成がこの小説を発表したのは「文藝時代」という雑誌で、1926(大正15)年1月~2月。1899年6月生まれだから、27歳の時である。

その前年「文藝春秋」3月号に掲載された「湯ヶ島温泉」という随筆で、次のように書いている。

〝七年前、一高生の私が初めてこの地に来た夜、美しい旅の踊子がこの宿へ踊りに来た。翌る日、天城峠の茶屋でその踊り子に会った。そして南伊豆を下田まで一週間程、旅芸人の道づれにしてもらって旅をした。その踊り子は十四だった。小説にもならない程幼い話である。踊子は伊豆大島の波浮(はぶ)の港の者である。〟

ということは、この「伊豆の踊子」の原体験となった旅は、川端が一高二年生の1918(大正7)年、19歳の時のことだ。

鈴木邦彦著「文士たちの伊豆漂白」にはこう書かれている。

〝この時の出来事が最初に作品として書かれるのは、それから四年たった大正十一年『湯ヶ島での思ひ出』においてだ。この前半部が、さらに四年後の大正十五年、『伊豆の踊子』として完成するのである。〟

ここで、この頃のバイオグラフィーを整理してみよう。

伊豆旅行の翌年の1919(大正8)年、「一高公友会雑誌」に処女作「ちよ」を発表。

翌1920(大正9)年、東大英文科に入学。同人誌「新思潮」発刊を企画し、菊池寛を訪問。

1921(大正10)年2月、第六次「新思潮」創刊。「ある結婚」を発表。2号に載った「招魂祭一景」が反響を呼ぶ。

同年10月8日、16歳の伊藤初代と婚約。だが11月8日、一方的に婚約破棄の手紙を受け取る。復縁に動くが叶わず、11月24日に最後通達となる「さようなら」の手紙が届く。

この傷心を癒すために訪れた湯ヶ島温泉の湯本館で、前出の『湯ヶ島での思ひ出』が書かれた。

そして1923(大正12)年、東大を卒業。10月に同人誌「文藝時代」を創刊。川端康成24歳の時である。

小説では20歳となっているが、原体験となった伊豆旅行は19歳の時。

10月31日と11月1日、川端と旅芸人たちは湯ヶ島の湯本館に2泊。翌日に天城峠を越え、11月2日と3日は湯ケ野に泊まる。ここで川端が泊ったのが、あの「福田家」だ。

こうして読了後に調べてみると、いろいろな発見があって面白い。

「あの」と書いたのは、福田家は後に太宰治が「東京八景」を書いた宿としても知られているからだ。

改めて、物語をたどってみると、17歳くらいに見える踊子と、その美しさに惹かれる20歳の学生が主人公である。

踊り子の面影を追いながら天城峠を越え、峠の茶屋で期待通りに彼女に会うところから、物語が始まっていく。

踊子の連れは、40代の女、2人の若い女、そして25、6の男。

そして湯ケ野で「下田まで一緒に旅をしたい」と申し出て、ここから四日間の物語である。

湯ケ野の共同浴場から、踊子が真っ裸で飛び出すシーンは、とても印象的である。と同時に、主人公の心だけでなく、読み手の心をとらえて離さない。

本文から引用してみよう。

〝仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突鼻に川岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何かを叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことことと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一ぱいに伸び上る程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。

踊子の髪が豊か過ぎるので、十七八に見えていたのだ。その上娘盛りのように装わせてあるので、私はとんでもない思い違いをしていたのだ。〟

いま読んでみて、おぼろげに覚えているのは、ここまでだった。

このあと、旅芸人の男から踊子が14歳だと教えられる。ここから、明らかに主人公の踊子に対する気持ちに変化がでてくる。

当時の14歳は、いまでいうと満13歳である。

踊子を処女と思い込んだ主人公は、踊子を女として見るのをあきらめて、いとおしい存在と受け止めようとする。だが、頭では理解しても、心は違う。だから、一人で映画を見た夜、暗い町で「わけもなく涙がぽたぽた落ちた」のだろう。

ここからは初めて読むのが明らかだ、と思うことがいくつもあった。

まず、男の名前が「栄吉」であることを知った。この名前は私の祖父と同じである。もし読んでいたら、印象として残っているはずだ。

主人公が行商人と碁を打つ場面も、踊子と五目並べをする場面も、まったく記憶にない。

下田から船に乗って東京へ帰るのは知っていたが、これは映画のシーンを見ていたからだろう。

驚いたのは、船の中で少年の学生マントの中にもぐり込んで、少年の体温に温まるところだ。

早稲田大学国際教養学部教授で、「恋愛学」の講義を行う森永友義教授はこう語っている。

「当時の川端は同性愛者でした。これは川端自身が随筆を通して告白していますから事実のようです」

そういえば、川端の「少年」という作品は、青春期に清野という少年との同性愛を描いた自伝的小説だと言われている。

文庫本で34ページの短い物語である。これも意外だったことのひとつだ。

これが「青春小説」の名作と言われるようになったのはなぜか――。

6回も映画化されたことが大きいにちがいない。

映画化は1933(昭和8)年が最初で、踊子役は田中絹代。以後、1954(昭和29)年が美空ひばり、1960(昭和35)年が鰐淵晴子、1963(昭和38)年が吉永小百合、1967(昭和42)年が内藤洋子、1974(昭和49)年が山口百恵。この百恵の相手役が現在の夫である三浦友和。

見た記憶があるのは、吉永小百合の踊子だと思う。

テレビドラマ化が5回。アニメ化が1回。

短編小説とはいえ、いま読んでみると、実にいろいろなことを考えさせられた。

およそ100年前の当時は、あきらかな差別があった。

一高生の主人公が「これで柿でもおあがりなさい。二階から失礼」と言って、金包みを男に投げるのだが、これには驚いた。

下田へ向かう、ところどころの村の入り口に「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立札がある。そういう時代だったのだ。

湯ケ野から下田へ超える山道で、五、六間先を歩いていると、踊子たちの声が聞こえてくる。

〝「いい人ね」
「それはそう、いい人らしい」
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」

この物言いは単純で開けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た。瞼の裏が微かに痛んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった。〟

川端が2歳のとき父が、3歳のとき母が亡くなっている。姉は伯母に引き取られ、川端は祖父母の手で育てられた。そして、7歳のとき祖母、10歳のとき姉、15歳のとき祖父を亡くし、天涯孤独の身となる。だから「孤児根性で歪んでいる」と言わしめているのだ。

調べながら読み返してみると、短編ながら実に奥が深い。

それ故、川端康成の代表作の一つとなり、1942(昭和17)年にドイツ語訳、1955(昭和31)年に英語訳されているのだろう。さらに、1956年には「雪国」、1959年には「千羽鶴」が英語訳はすべてエドワード・サイデンステッカーによってなされた。

ちなみに、「伊豆の踊子」の英語訳には「The Dancing Girl of Izu」とサイデンステッカーの「The Izu Dancer」がある。

話は変わるが、川端康成の文章表現で有名なのは「雪国」の冒頭だろう。小説を読んだことがなくても、この書き出しは覚えている人が多いにちがいない。

〝国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。〟

この「夜の底」という言い方は、よく調べてみると、芥川龍之介の「羅生門」で使われている。

〝下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。〟

この「羅生門」の初出は1915(大正4)年だから、川端が知っていても不思議ではない。川端にとって、気に入った表現だったのだろうか。

川端は1926年の「伊豆の踊子」で「底」という表現をすでに使っている。

〝「ああ、踊子はまだ宴席に坐っていたのだ。坐って太鼓を打っているのだ」
太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈み込んでしまった。〟

そして昭和になってから書いた「雪国」には冒頭の「夜の底」だけでなく、底という言葉がいくつも出てくるという。これは佐藤正午「小説の読み書き」に載っていた。

鏡の底、底に沈む、地の底、寒気の底、雪の底、胸の底、耳の底、体の底、山の底。

佐藤正午はこう書いている。

〝ひょっとしたら川端康成は「底」という一語に愛着を持っていたのかもしれないが、僕がしたいのはそういう話ではなくて、わざわざ隠喩を用いるくらいだから、川端康成の頭の中には、夜の底と書く以前にたとえば地面や、あたり一面や、見渡すかぎりや、野も畑もや、ほかにもいま僕が思いつけないフレーズが様々浮かんでいたはずだということである。その様々あった中から、川端康成は夜の底という表現を一つ選んで、そして原稿用紙に書いた。なぜか?

なぜならそれが書くことの実態だからだ。〟

佐藤正午は「書く」と「書き直す」は同義語である、という。これは考察していくと、また別の話になってしまうのでやめる。

話は川端康成の「伊豆の踊子」である。ここでの文章表現ですごいなと思うのは、書き出しもそうだが、もうひとつある。見出しに使った文章がそうだ。

〝湯ケ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。〟

ここで言っている「南国」がどこをイメージしているかわからないが、「山や空の色までが南国」とは何とも絶妙な言い回しではないだろうか。この風景を自分の目で見てみたい、と思った。

なんだか、だらだらと書いてきてしまった。人間、調べたことはつい全部書きたくなるものだ、と実感。

久々に名作と言われている小説を読んで、この歳になっても、知らないことばかりだと思い知らされた。書き手の深さについていけない読み手の浅さを感じた。

生涯、勉強である。楽しく勉強したい、と思う。だが、つい新型コロナウイルス感染の憂鬱に支配されそうになってしまう。

満開の桜を目にしても、心の底には寒い風が吹いているみたいだ。

[BOOK DATA]

「伊豆の踊子」
川端康成
初出:「文藝時代」1926(大正15)年1月~2月
単行本:金星堂1927年3月 発行
文庫本:新潮社1950年8月20日 発行