小林麻美 第二幕

日光東照宮の『三猿』ってあるでしょう。

私はその『見ざる言わざる聞かざる』だった

懐かしい人が本を上梓した。タイトルを見たとき、本人の著書だと思ったが、今回はインタビューに答えただけで、著者はTOKYO FMのプロデューサーであり、作家の延江浩である。雑誌「AERA」に2回掲載されたものを加筆して書籍化したものだ。

帯に「四半世紀の沈黙を破り、小林麻美が初めて語る――」とある。最初の文章(エピグラフというらしい)にこう書かれている。

〝彼女は91年に突如、引退し、芸能界から姿を消した。
「引退は自分なりの禊(みそぎ)だった」と小林麻美は振り返る。〟

そして、こう締めくくる。

〝「私は自分を何層もの蝋(ろう)で固めていた。でも、これからはその蝋を溶かそうと思う」
彼女はゆっくりと語りはじめた。少女時代の記憶、松任谷由実との友情、そして夫となった田邊昭知との日々を――。〟

興味深く読んだ。本が届いてから、読了まで4時間ほどだった。

帯にある「東京が発熱していた時代の女たちと男たちの物語」は、東京生まれ東京育ちの少女ならではのエピソードであふれていた。

4歳年上の浜っ子にはわからないことも多い。それでも、彼女から聞いたことがあったり、彼女がこれまでに書いた文章から感じられたりしたこともあった。

この本のことを書く前に、小林麻美との不思議な縁について書いておく。

小林麻美との出会いは、彼女がニッポン放送オールナイトニッポンのパーソナリティをしていたときだ。1975年の秋だったと思う。

午前一時から三時まで、スタジオの外でオンエアーを聴いていた。番組が終わり、スタジオから出てきた麻美をディレクターが紹介してくれた。

なぜ、三時までスタジオの外で待っていたのか、理由はよく覚えていない。どうして番組が始まる前に紹介してもらえなかったのかは、いまでも謎だ。

紹介された瞬間の彼女のことは、いまでも印象に残っている。ずっと待っていたことに驚いたようだった。とても恐縮して、何度か「ごめんなさい」と言ったのを覚えている。

しかも、彼女は「自分で書いてみたい」と言う。これにはこちらが驚いた。

当時、私は26歳になったばかりだったが、すでにタレント本を何冊か担当していて、インタビューしてゴーストライターが原稿にするものばかりだった。

それなのに、22歳の彼女は「自分で書く」と、当たり前のように言った。

それからは毎週、彼女から原稿を受け取った。200字詰めの原稿用紙に、ブルーの文字が躍っていた。男っぽい字だった。

エッセイのような、小説のような、詩のような……不思議な魅力を持った文章だった。初めて文章を書いたというが、言葉遣いを少し直すくらいで、彼女が書いたそのままの原稿が一冊の本となった。1976年のことだ。

タイトルは「ブルーグレイの夜明け」。きれいな本に仕上がったと思う。

その後も、本を出すときはいつも何らかの形で関わっていくことになる。

そして、ぼくが結婚することになったとき、相手の名前を彼女に伝えた。一瞬の間があって、

「ヤマモ⁉」

彼女が驚いたように小さく叫んだ。普連土学園の同級生だったのだ。

こんな偶然もあるから、人生は面白い。

いま、世の中が大変な騒ぎになっているときに、この本「小林麻美 第二幕」を手にした。

一気に読んだ。

「よく頑張ったね」

彼女にはそう言ってあげたい。

語ることに悩んだと思う。

禁断の恋まで……これには驚いた。当時の業界を知る人にとっては周知のことであるかもしれないが、今更という気がしないでもない。それでもこれを乗り越えないと、彼女のセカンドステージは幕が上がらなかったのだろう。

田邊社長とのことは、仕事をしているときになんとなく気づいていた。本人からは聞いていないが、思い当たることがいくつかあったからだ。それはいつか、本人に聞いてみたいが、それも野暮というものだろう。

タレントと所属事務所の社長の関係は、芸能界のしきたりとしては許されない。この本の中で、小林麻美はこう語る。

〝「私が20歳。彼が35歳。今ならそんなことはないけど、あの頃は主従関係の年の差ですよね」
「仕事が(夜の)8時に終わるとする。だから、9時には家にいますって彼に言う。そうしたら9時には家にいた。電話をひたすら待って。当時は携帯なんてないから。それが幸せだった」
「17年です。彼がいなかったら、男性遍歴を繰り返して、もしかしたら大女優になったのかもしれない(笑)」〟

松任谷由実は「麻美ちゃんは『待てる女(ひと)』です。『待つ』のではなくて、『待てる』。だから『待てる女』。ちなみに私は『待てない女』(笑)と語る。

〝「親友の彼氏だったからね。田邊さんは半端なくモテた」とユーミンが言えば、「日光東照宮の『三猿』ってあるでしょう。私はその『見ざる言わざる聞かざる』だった」と麻美は言う。〟

麻美にとっては「それぐらいしか自分を守る術(すべ)がなかった」と言う。

そして、妊娠、出産、結婚――すべて極秘裏に進められた。このあたりは本を読んでほしい。実に我慢強い小林麻美がそこにいる……。

1991年に突如、引退した小林麻美は、25年ぶりに雑誌の表紙を飾った。2016年9月号の「クウネル」という女性誌だ。

実に四半世紀ぶりの復活劇だった――。

子どもが自立したとき、小林麻美はセカンドステージを歩むことを決意したのであろう。この本の最後の章に、こうある。

〝「主人には感謝しかありません。ずっと、大切な人なんです。
私が、夫である田邊昭知のことをお話しするのは、46年にして初めてのことです」
こうして小林麻美の「第二幕」が始まった。〟

この本を読んで、いろいろと考えさせられた。

私自身「人生七十、古来稀なり」を過ぎたいま、人類が古来稀な出来事と遭遇している。稀有(けう)と言ってもいい。

「稀(まれ)」という字は「希」が書きかえ字である。それなら、希みをもっていけるかどうか……。

小林麻美は64歳で、第二幕の幕を開ける決断をした。そして66歳のいま、第二幕を楽しんでいるに違いない。

70歳を過ぎた私に、第二幕はあるのだろうか。同級生の友たちはどうだろうか。

ちなみに、小林麻美が引退した1991年といえば、私にとってもターニングポイントの年であった。

田邊稔子から最後の年賀状をもらったのは、この年だっただろうか。記憶が定かではない。

この年の秋、家族と南フランスに行った。息子と娘はフレネという小学校に入学。フランス語ができないのに、二人とも大変だったと思う。

3か月後、私だけ帰国。成城で初めての一人暮らしを始めた。結局、2年後に離婚となってしまった……。

そして29年たった2020年、健康で元気なら、それが一番だ、と思った。友たちといまは会うことができなくても、いつかまた話ができる日がきっとくる。そして、看護師の家人に何もないことを祈るばかりだ。

ともすると、ネガティブな考えが浮かんでしまうが、本でも映画でも何でもいいから元気の素を見つけて、運動不足と栄養不足にならないように気をつけながら、Happy Daysを待っていよう。

元気を与えてくれた「小林麻美 第二幕」に感謝。

[BOOK DATA]

「小林麻美 第二幕」
延江 浩
初出:「AERA」2018年8月27日号と9月3日号
単行本:朝日新聞出版2020年3月30日 第1刷発行