競馬における一番の魅力は「継承」です。
いまこの時代にある「希望」を
次の時代へと継承する――
ミステリー以外で、久しぶりに面白い小説を読んだ。競馬が好きだから、よけいにそう思ったのかもしれない。
まず、出版元の新潮社にある内容説明を掲載。
成り上がった男が最後に求めたのは、馬主としての栄光。だが絶対王者が、望みを打ち砕く。誰もが言った。もう無理だ、と。しかし、夢は血とともに子へ継承される。馬主として、あの親の子として。誇りを力に変えるため。諦めることは、もう忘れた――。圧倒的なリアリティと驚異のリーダビリティ。誰もが待ち望んだエンタメ巨編、誕生。〟
競馬好きにはまさしく、読みたくなる紹介だった。年明け早々に購入したものの、例によって積んどくだけで時が過ぎ、やっと読んだのが、緊急事態宣言の発布された日だ。
読みだして、まず驚いたのが内容よりも、本文が「です・ます」調で書かれていることだった。最近の小説では、あまりお目にかかれないように思う。もしかすると、私が読んでいないだけかもしれないが……。
ここからは「です・ます」調で書いていくことにします。
どうも好きになれない太宰治などは、口述筆記のものは「です・ます」調が多いといいます。最初から最後まで、よどみなく話して収録された文章がそのまま小説になったそうですから、それはそれで驚きです。完成された口述とでもいえばいいのでしょうか。
口述している作家は何人かいる、と聞いたことがあります。それでも、口述がそのまま完成形の文章になった作家がいるとは、聞いたことがありません。
「です・ます」調といえば、ミステリー作家の吉村達也から聞いたのが、中里介山の「大菩薩峠」という小説です。1913年から1941年にかけて、28年間にわたって連載新聞を変えながら書かれた時代小説です。
これは、原稿枚数1万5000枚に及ぶ世界最大の大河小説と言われています。未読で、どこにしまったのか、本が見当たりません。
そろそろ所蔵本の断捨離をしないといけない、と思いつつ、なかなか手がつけられないでいます。外出自粛で自宅謹慎中のいまは、絶好のチャンスだというのに――。
話は「ザ・ロイヤルファミリー」です。物語の主人公は、競馬馬と馬主、そのファミリー。そして、馬主のマネージャー(秘書のような存在だが、マネージャーと呼ばれている)となる青年。
馬主は「うまぬし」と読むのが正しいそうです。「ばぬし」「ばしゅ」という読み方は使わない、とNHKでは決めています。
主人公となる馬主の名前は山王耕造(さんのうこうぞう)。人材派遣業を営む「株式会社ロイヤルヒューマン」のワンマン社長です。馬主として所有する馬には、山王の「王」から取った「ロイヤル」の冠をつけています。
狂言回しをつとめるのは、転職を考えている税理士の栗栖栄治。
同級生だった大竹と再会して、競馬場に誘われます。大竹の叔父にあたる山王の馬が重賞レースに出走するというのです。しかも、かつての恋人だった野崎加奈子の実家は北海道の牧場で、そこの馬もその重賞レースに出走するから、加奈子本人も来ると言います。
心が揺れる栗栖でしたが、競馬場には行かないことにしました。それでも気になってテレビ観戦していると、山王の持ち馬ロイヤルダンスは他馬に比べると風格があると感じました。2番人気におされています。
加奈子の実家で生産されたラッキーチャンプは、14頭中の9番人気ですが、栗栖の目には1番人気の馬より美しく映りました。
大竹から電話がかかってきて、「どう思った? ロイヤルダンス」と聞くので、ダントツに強そうに見えた、と栗栖は答えます。
「単勝馬券を買っとくよ」と言う大竹に、栗栖は「加奈子の馬もよく見えた」と伝えます。栗栖には、この2頭が抜けてよく見えたのです。
快晴の中山競馬場、芝の2000メートル戦「金杯」。注目している2頭はまったく違うスタートを切りました。ラッキーチャンプは最初から全速力でハナに立ちますが、ロイヤルダンスは最後方にぽつんと残されてしまいます。
最後の直線、ラッキーチャンプに迫るのは1頭だけ。ロイヤルダンスが猛然と追い込んできます。ゴール前、ロイヤルダンスがラッキーチャンプを交わして、ハナ差で勝利しました。
大竹から、また電話。
「叔父さんが、お前に礼を言いたいってきかないんだ。ビギナーズラックだ、おかげでハナ差交わすことができたって」
新宿まで来てくれ、という大竹の頼みに応じて、出かけて行った店で、栗栖は大竹の叔父である山王耕造と知り合い、彼の会社に入ることになります。
こうして、ビギナーズラックで馬券を的中させたところから、山王と栗栖の物語が始まっていきます――。
本書は、第一部と第二部で構成されています。
第一部は「希望」で、馬主の山王耕造と栗栖栄治の物語です。
ワンマン社長の破天荒ぶりは、読者を飽きさせません。それに振り回されながらも、馬主のマネージャーとして立ち回る栗栖が、いい味を出しています。なかなか読みごたえがあります。
そして主人公となる馬は、加奈子の父親の牧場で生まれた、ロイヤルホープ。預かってくれた広中調教師も絶賛する馬です。
デビュー戦は6月、最終週の日曜日、阪神競馬場で行われる芝1800メートルの新馬戦。単勝オッズは、全12頭中の6番人気の「26倍」でしたが、ジョッキーの佐木隆二郎は出遅れたロイヤルホープを見事に勝利へ導きました。
ここからは、ロイヤルホープのレースを追いながら、4年半の物語が進行していきます。競馬ファンでなくても、十分に楽しめる展開になっていますので、読み進めると止まらなくなります。
その間のエピソードは省きますが、クライマックスのGⅠ「有馬記念」の前に、妻と別れた山王耕造に4度目の発症となるガンが脳に見つかります。
12月26日、雨の中山競馬場に、山王の姿はありません。山王の家族はみな揃っています。息子、娘、別れた妻までも。
加奈子と息子の翔平も来ています。翔平は競馬学校を来年春には卒業、騎手への道へ進むことが決まっています。
栗栖の待っている人だけがまだ現れません。
ロイヤルホープの雨中の激走が終わったとき、栗栖はメールを2通、立て続けに受信しました。
『ここ最近の、俺が死ぬ前提で話をしているお前の態度が気に入らない。オレにそのつもりはまったくない!』
もう一通は登録にないアドレスからです。息をのみ、震える指を懸命に押さえて、私は慎重にそれを開きました。
『先日はせっかくのお誘いを断り申し訳ありません。薫子から話は聞きました。一度、お目にかかりたいと思います。父とではなく、まず栗栖さんと話ができたら嬉しいです』
生きる執着を取り戻そうとする父親と、新しい一歩を踏み出そうとする息子です。ロイヤルホープの走りが親子の気持ちを動かしました。私にはそうとしか思えません。二通目のメールの末尾には『中条耕一』という署名がしっかりと記されてありました。〟
馬の血の、ジョッキーの思いの、そして馬主の夢の「継承」で、第一部はロイヤルホープの競馬成績を載せて終わります。
そして、第二部の「家族」へと、3年後の物語につながっていきます。
ここで「相続馬限定馬主」という、初めて耳にする制度が登場します。
JRAの馬主になるには、現在でいうと年間の所得が2年連続で1700万円以上あり、保有する資産の額が7500万円以上あること、という条件があります。
ただし、馬主が死亡した場合、その人間が所有する馬はすべて法定相続人に相続されます。そのときは、条件に当てはまらなくても、飼い葉料などを負担できるなら馬主になれるという制度があるのです。それが「相続馬限定馬主」で、オーナーが死ぬ前に競走馬登録されている馬に限り、その馬が引退するまでは馬主を続けることができます。
第二部は、この制度がポイントとなって始まります。ここからは、山王耕造と愛人の間に生まれた子、中条耕一の物語が展開していきます。
父から馬主を継承した中条耕一、ロイヤルホープの子ロイヤルファミリー――人も馬も父母から子へ、そして孫へとつながっていきます。
広中調教師は「一頭の馬を中心としたチーム」と述べました。
ロイヤルファミリーのデビュー前から、「継承」というタイトルで連載が開始されていました。デビューの日が連載の最終回。その文章を引用。
『すべては「縁」から始まった物語だった。自らのレースマネージャーと、北海道の小さな牧場の一人娘が大学時代の友人で、そのつながりからオーナーはのちの「ロイヤルホープ」と出会うのだ。
オーナーに馬を見る力はなかったかもしれないが、人を見る目には長けていた。(中略)
その父の見果てぬ夢の場所に、息子たちは辿り着くことができるのだろうか。一人のオーナーの決断から始まったチームの「縁」の物語。第二部が今日開く。(競馬班・デスク 平良恒明)』
第一部と同じように、今度はロイヤルファミリーのレースを追いながら、4年半の物語が展開していきます。
馬主、馬、騎手、そのすべてにモデルが思い浮かびます。競馬ファンはそういう読み方も楽しめると思います。競馬を知らなくても、父から子へとつながる血の物語に興味をそそられるはずです。
若い馬主だからライバルの馬主も若い、というのが物語の常套手段(じょうとうしゅだん)かもしれませんが、少しだけ気になってしまうところも見受けられました。でも、それは好き好きの問題だと思います。私が歳をとったから、そう感じただけでしょう。
そんな感想を書くのが恥ずかしく思えるほど、この物語は映像化に相応しいと思いました。それでも、著者と話し合って、少し加筆する必要はあると思ってしまうのは、年寄りの冷や水というものでしょう。
ロイヤルファミリーの引退レースとなる「有馬記念」が終わったとき、耕一は栗栖に話し始めます。
「声? 誰のですか?」
「父のです。『まだ辞めるべきじゃない』『続けるべきだ』って。僕にはたしかにその声が聞こえたんです。もちろん、錯覚だってわかっているんですけど、ひょっとしたらクリスさんには聞こえていたんじゃないかって」
耕一さまは自分で言って笑っていました。その表情は本当に照れくさそうでしたが、私には笑うことができません。
私はその声を聞いていません。しかし、他ならぬ私自身が天国の社長に願ったことです。意固地になった耕一さまを懐柔できるのは、社長しかないと思っていました。〟
一度表明した「引退」を撤回するのは、相当な覚悟がいることです。そこで、栗栖は「馬自身に決めさせませんか?」と、耕一に提案します。
「わかりました、“ファミリー”に会いにいきましょう」
二人が向かった先は、ナイターの灯ったターフではありませんでした。
こうして小説の物語は終わり、最後にロイヤルファミリーの競馬成績の表が載っています。引退までの一年が付け加えられて――。
「競馬は馬券を買っていないと楽しめない」とずっと思い込んでいました。馬券を買わないでも楽しめる競馬があるかもしれない、と思わせてくれた小説でした。
馬券を買わなくなって、何年かの月日が流れていきました。
一緒に競馬を戦った年下の友が若くしてさよならを告げてから、一度も勝ち馬投票券を買っていません。鎌倉にWINDSがなくても、インターネット投票があります。買おうと思えば買えるけど、買う気が起きないのです。それとともに、競馬中継を見られるグリーンチャンネルの契約も辞めました。
たまに、テレビの競馬中継を見ていて感じるのは、馬の名前がわからないのは当然としても、ずいぶん新しい騎手が出てきたな、ということです。
一人の騎手、一頭の馬を追いかける競馬をしてもいいかもしれない、とふと思いました。小説「ザ・ロイヤルファミリー」がそう教えてくれています。感謝。
[BOOK DATA]
「ザ・ロイヤルファミリー」
早見和真 著
初出:「小説新潮」2017年1月号から2018年1月号、2018年4月号~9月号
単行本:新潮社2019年10月30日 発行