名前をピーターと書かないで、
ピータアとしたいんだ、
洒落てるだろ!
著者の「竹邑類」と聞いて、すぐに思い当たる人は、かなりの演劇通に違いない。数々の名優主演の舞台を手掛けている、演出家であり、振付師であり、ダンサーでもある。
まず、出版元の新潮社にある、本書の内容説明を掲載。
高知から東京へ出て来て夜間の大学に通っていた少年が、毎日のように新宿に足を運び、やがて一軒の店と出会う。この店のことを著者の竹邑類は、こう書いている。
常連となったこの店に、ある夜、三島由紀夫がやって来たことで、少年と作家の「青春」が始まる――。
少年は自らを「ピーター」と自己紹介して、作家の大ファンだったと告げた。少年は作家の作品をいくつもあげて、ひとりよがりな批評を展開。作家はとがめることもなく、「アハハハ……」という豪快な笑い声で応えてくれた。この作家独特の笑い方はまさしく「呵呵大笑(かかたいしょう:大声で「あははは」と笑うこと)」であり、それが本のタイトル「呵呵大将」につながっている。
しかも、作家は「胸触らせ行動」で、自らの筋肉を自慢した。胸の筋肉を動かして悦んでいる作家を見て、少年は「なんて無邪気で純粋なんだろう」と感動するのだった。
一時間ほどの滞在だったが、作家はこの店にたむろする若者たちの面白さが気に入ったようだった。
作家は若者たちのことを週刊誌にこう書いている(中元さおり「戦後<ユース・サブカルチャーズ>への一視点」より引用)。
新宿のKやMやVといふモダン・ジャズの店に集まる若い人たちがさうである。
しかし日本では一つの町内全体がさうなるほどではないのはいかにも象徴的で、結局ここに集まる若い人たちも、二十四時間の生活の何分の一かをここでフィクショナルな生活に捧げてゐるわけだ。
われわれの芸術生活もどうせそんなものだから、それはそれでいい。
ツウィストが巧くて、モンテーニュや唐詩選をも語り、ウィットもあり、お洒落で、そして絶望してゐる若い人たち、といふ類型は、日本でいへば、モボ・モガ時代のリヴァイバルかもしれず、今この人たちの流行が、ツウィストからチャールストンへ移って行きつつあるのも面白い。
とにかく、こんな連中がゐるおかげで、東京も、世界の東京になつた感じである。(三島由紀夫「Four Rooms 日本のグレニッヂ・ヴィレッヂ」週刊文春1962.7.30)〟
僕らは知らない新宿だ。1960年代初頭はまだ小学生から中学生になった頃だから、当然と言えば当然だが、なんとも面白そうであり、覗いてみたい気になってしまう。
作家は、この店の常連たちを「新宿ビート族」かもしれないと言い出した、と著者は書く。情報を聞いて訪ねてきた作家の勘の鋭敏さを思った、とも。
有名作家が訪れても騒ぐでもなく噂するでもなく、ハイミナールの酔い心地も手伝って、若者たちはこの空間と時間をひたすら漂流していた……。
それからは週に一度、作家は店を訪れるようになっていく。
何度目かの来訪のとき、作家は「ピーターと仲間の何人かと食事をしないか、銀座の一流中華料理店で!」と、その店に場違いな若者たちと大騒ぎをしたり、前衛的なお洒落をして銀座の一流ステーキ屋に連れて行ってくれたりした。どちらも、作家のいたずら心から出た思いつきだった。
しかも、作家は後日、両方の店をしっかりケアしたという。それを聞いた著者は、作家の「超が付く良識人ぶりの凄みを感じた」と書く。その報告は例によっての呵呵大笑つきであった、と。
ある夜、作家と女の子と三人で、青山一丁目の交差点の角にある、廃墟になった教会へ行った。
作家は懐中電灯を照らしながら、教会内の様子を子細に見て回っていた。ここへ来ると必ず踊っていたピーターは、いつものように地下室へと降りて行く。
その夜の東京は、あいにくの曇り空。
「ここにいると、月からのピンスポットが当たるんだ」と、ピーターは階段の踊り場に立って、踊りのポーズ。と、一条のスポットライト。作家の懐中電灯の光が当たった。
作家は短編「月」にこう書いている。
しばらく返事がなく、やがて甲高い声が尖塔の内壁のあちこちにぶつかって降った。
『お月様が見えるんだよ』〟
この日、作家は「ピーターのことを小説にしようと思って準備をしている」と告げた。
「名前をピーターと書かないで、ピータアとしたいんだ、洒落てるだろ!」と。
それから三ヶ月くらいして、作家の「月」という短編小説が雑誌「世界」に載る。1962(昭和37)年8月号のことだ。
そこで、作家はピーターのことをこう書いている。
そして、翌年の「世界」1月号には短編「葡萄パン」が掲載された。ここには、鎌倉での野外パーティが描かれている。
舞台に出始め、自分の演出で作品を作りだしたころ、著者の竹邑類は夜の踊り場を代々木の<VOODOO>に代えていた。
店名はアフリカの密教VOODOOから付けられたもので、満月の夜、ちょうど満月が真上に来た時、生贄の血をささげる儀式を山奥でやろうと計画していた。
そのパーティは八月の満月の夜、鎌倉の稲村ケ崎の山中で催された。会場は三つくらいの小道が集まったところにある、樹林の囲まれた小さな広場。
燃え上がる松明の焔。黒人がたたく、強く響くコンガの音。
一瞬の静寂。生贄のニワトリの首が切られた――。
儀式の後はトゥイストパーティ。稲村の山奥は夜の新宿のように燃え上がる。アフリカの密教は、現代的なダンスパーティになり果てた。
「ピーター、今度は脇役だから、アハハハハハ」と言い残し、作家は帰って行った。
著者の竹邑類は「エピローグ――三島さんへの手紙」で、こう書いている。
(中略)書いていると、次から次へと様々なことが思い出されてきます。
いい意味でも悪い意味でも、三島さんの言った通りの時代になりました。それなりに明るくて、それなりにお金持ちで、それなりに華やかなのに、いつ晴れるとも知れない霧の立ちこめる中、つかみ処のない幸福、色あせた繁栄……。
でも、僕はそんな時代の波の真ん中にいて、押したり、まぜっ返したり、自分らしく生きて行くことにずっと誇りを持っています。
あれから、そう、三島さんと知り合うことで、「出会い」こそが人生そのものだと知りました。
三島さんと過ごした時間は、夢のような出来事でした。〟
羨ましい出会いだったなあ、と感じた。そんな出会いがあっただろうか、と我が身を振り返る。
多くの人と出会っているのに、人生そのものだと思える「出会い」はそんなに多くないと、当たり前のことに改めて気づく。
著者の竹邑類さんとは、一度だけお仕事をさせていただいた。編集者になって二年目を迎えたばかりのころだった。ある本のゴーストライティングをお願いしたのだ。
もう四十年以上前のことなので、題名を挙げてもいいか。
ずうとるび作「不思議の国のずうとるび」。1975(昭和50)年発売。
ビートルズをひっくり返した名前の、四人組の男性グループで、レコードもそこそこ売れていた。
これがとんでもない事件を巻き起こすことになる。
当時、タレント本が一つのブームになっていて、NHKから出版社に取材の申し込みがあった。編集者は私一人しかいない出版社だったので、当然、取材を受けるしかない。
その頃はとてつもなく忙しかった。タレント本だけでも、笑福亭鶴光「続かやくごはん」「午前一時のひまつぶし」、西城秀樹「誰も知らなかった西城秀樹」、北公次「256ページの絶叫」、オールナイトニッポン「夜明けの紙風船」、沢たまき「大学生諸君」、そして「不思議の国のずうとるび」。
NHKの取材日、タレント本の作り方など聞かれて答えていたところ、たまたま机に見本が出来たばかりの「不思議の国のずうとるび」があった。
実は本人たちに一度も会っていないので、本づくりの経緯をうまく説明できない。
それを変だと思ったのかどうかわからないが、ディレクターはすぐに「ずうとるび」を取材。彼らが本を作っていることを「知らなかった」と答えたものだから、それがそのまま「ニュースセンター9時」でオンエアされた。
NHKの影響力はすごかった。いろんな人から電話をもらった。懐かしい人もいた。
これで本が売れればよかったのだけど、あまり宣伝効果はなく、社長から大目玉をくらっただけだった。
その「不思議な国のずうとるび」の原稿は、不思議な感覚を持った物語になっていた。
竹邑類の才能に驚いた。原稿を書く速さにも驚いた。
もっと仕事を頼みかったけど、本職のほうが忙しくなって、結局は一冊だけの付き合いで終わってしまう。
縁がなかったと残念に思っていたら、意外なところで竹邑類とつながる。
小林麻美のマネージャーから電話があり「梶原さん、いま、竹邑さんに代わるね」と言われ、三年ぶりに話すことができたのだ。これにはびっくりした。
なんでも、麻美が出る舞台「ガラスの家」の演出とか振付とかを担当しているという。新進気鋭の演出家と編集者の、たった一度の再会だった。
そんな竹邑類の本をいま再読して、改めて「いい時代を生きた人だな」と感じている。
三島由紀夫が亡くなったのが1970(昭和45)年11月25日、享年四十五歳。もう半世紀も前になる。
それから四十三年後の2013(平成25)年12月11日、竹邑類も亡くなった。なんと本書を上梓した翌月だった。享年七十一歳。今年、僕らはその歳になる。
2020年、僕らが生きる世界は大変な時期を迎えてしまった。素敵な未来になればいいけど……。
[BOOK DATA]
「呵呵大将 わが友、三島由紀夫」
竹邑 類 著
単行本:新潮社2013年11月25日 発行