風呂屋もそうだが、映画館も
公徳心ってやつを学ぶ場なんだ
今野敏の「任侠」シリーズ第5弾だ。
ヤクザが主人公の小説だが、このシリーズは一風変わっている。これまで4冊のタイトルを見れば、普通ではないことがわかるだろう。任侠書房、任侠学園、任侠病院、任侠浴場。
阿岐本組長と組員5人のちっぽけな阿岐本組(あきもとぐみ)は、今の世の中では珍しい「任侠道をわきまえた」ヤクザという設定。大組織に属さず、独立を維持している「一本独鈷(いっぽんどっこ)」の組である。
この組長のもとに兄弟分の永神から経営再建の話が持ち込まれるところから、物語が始まっていく。出版社、私立高校、病院、風呂屋と舞台は変わるものの、ストーリー展開はエンタテインメントの王道である。テンポよく進むので、一気に読んでしまう。ストーリーテラー今野敏の面目躍如だ。
シリーズ5作目の舞台は、北千住にある古い映画館。阿岐本組長は、代貸の日村と映画館を訪ねる。兄弟分の永神も同席。
経営は赤字だが、存続を望む「ファンの会」もあり、三代目の増原社長は閉館もやむなしと思いつつも、祖父が造った映画館を「自分の代で潰したとあっては面目ない」という思いもある。
このあとの会話に、阿岐本組長のすごさが表れている。本文から引用してみよう。
妙に絡むな、と日村は思った。阿岐本は増原から何かを感じ取ったに違いない。
このあたりの阿岐本の臭覚はとても鋭い。これまで数々の危機をその臭覚で回避してきたのだ。
ただ用心深いだけではない。その臭覚によって相手の弱点を見いだして、攻撃の材料にすることもあるのだ。
増原社長はたじろいだように、阿岐本から眼をそらし、永神、日村の順に見た。それからおもむろに阿岐本に眼を戻して言った。
「映画館なんて、ビジネスだけでやっていけるもんじゃありません」
阿岐本が尋ねる。
「……とおっしゃいますと……?」
「一言で申しますと、やはり好きだからやってきたということです」
「映画がお好きなんですね」
「若い頃には、私自身が映写をしたものです」〟
この「好きだからやってきた」が本シリーズのテーマの一つでもある。
さらに、阿岐本組長は代貸の日室にこう話す。
公徳心。
最近、とんと聞かない言葉だ。小さい頃は学校でそんなことを言われた気がする。しかし、ヤクザが「公徳心を学ぶ」なんて言っているのを、堅気が聞いたらどう思うだろう。
逆に言うと、今どき「公徳心」などと言うのは、ヤクザくらいなものなのかもしれない。誰も彼もアメリカ流の個人主義が格好いいと思っているらしい。
人の眼を気にしすぎるのは愚かだろう。だが、まったく気にしないのもどうかと思う。電車の中であぐらをかく女子高生とか、化粧をする若い女たち、ネットにアップするために、悪さをするアルバイトの若者。
たしかにこの国は、だんだん生きづらくなっているような気がする。日村はそんなことを思っていた。〟
阿岐本組長の一言ひとことに、思わず頷いてしまう。そんなセリフがいくつもちりばめられている。
これまでなら、組員たちが映画館へ乗り込んで再建していくのだが、今回はそれがない。ちょっと物足りなさを感じた。それでも、再建を阻むトラブルを処理していく展開には、なるほどと感心してしまうところがある。
ラストで増原社長は「会社を救ってくれた」と阿岐本組長にお礼を述べ、映画館に招待する、と言うが――。
「親分さん」
増原がやや強い口調で言った。「映画館の扉は万人に開かれているんです」
「はい……?」
「どんなお客さんも、おとなしく映画を観ていただく限りは、お断りはしないということです」〟
日村は最後に言う。映画館に行くのは、やはりわくわくするものだ、と。
たしかに、そうだ。いまはほとんど映画館に行かなくなってしまったが、若い頃は映画館に行くのが本当に楽しみだった。わくわくした。
私が30歳まで暮らしていたのは東横線の妙蓮寺で、隣駅の白楽には「白鳥座」と「紅座」、横浜の一つ手前の反町には「東映」と「ロマン座」と、近くに4つも映画館があった。
「白鳥座」は白楽の駅前にあり、洋画専門館だった。六角橋には「紅座」があり、植木等の映画をよく見た。
反町の「東映」には家族で行った記憶がある。時代劇ばかり見ていた。
「ロマン座」はあるときから、ピンク映画専門館になった。18歳未満は入場禁止なのに、高校生のとき一人で見に行ったのを覚えている。ませたガキだった。映画の内容はほとんど覚えていないが、パートカラーという、モノクロ映画が突然、あるシーンでカラーになったのを懐かしく思い出す。
いま、その4つの映画館は姿を消してしまった……。
ロードショーの映画は、伊勢佐木町まで出かけなければならなかった。中学生になってからは友達と行くことが多かったかな。「ウエストサイド・ストーリー」「サウンド・オブ・ミュージック」「ジャイアンツ」……などなど。
天王町におじさん夫婦が住んでいて、日活映画をよく見に行って、夜泊めてもらったこともある。赤木圭一郎の映画はほとんど、ここで見た。映画館の名前が思い出せない。ネットで調べると「ライオン座」とあるが、まったく記憶にないのだから嫌になってしまう。
大学時代にタウン誌「ドロップイン伊勢佐木」でアルバイトをしている頃、映画情報のページを担当していて、何館かの映画館から招待状を読者プレゼントにもらっていた。
そのとき、親しくなった支配人が「映画見ていくか?」と言ってくれたことが何回かあった。たしか「大勝館」という2、3本立ての映画館だったと思う。偏屈なオヤジさんだったが、妙に親しくなった。伊勢佐木町の一本裏通り、若葉町にあった映画館だが、いまはもうない。
ここで見た映画はほとんど覚えていないが、幕間で流れた歌がすごく印象に残ったことがある。平山三紀「真夏の出来事」だ。
彼の車に乗って さいはての街 私は着いた
悲しい出来事が起こらないように
祈りの気持ちを込めて
見つめあう二人を
朝の冷たい海は 鏡のように映していた
朝の冷たい海は 恋の終わりを知っていた
聴いていて、なぜか涙がこぼれた。理由はわからない。彼女と別れてからずいぶん時が流れていたのに……。
1971年の初夏――。先行きが見えず、何をしたいのかもわからず、アルバイトばかりしていた。
そういえば、日活ロマンポルノの第一作「団地妻 昼下りの情事」(白川和子主演)と『色暦大奥秘話』(小川節子主演)を見たのも、このタウン誌でアルバイトをしていたときだ。
タウン誌の取材で、日活ロマンポルノの田中真理と青山美代子という女優に会ったのもこのあとだ。田中真理はお高くとまっていたが、青山美代子はかわいい人だった。
カメラマンが撮った写真で栞を作ってくれて、それを青山美代子に送ったことを覚えている。彼女からお礼の電話をもらったのを懐かしく思い出す。
金は無かったけど、ひとつの青春だった。
70歳を過ぎたいま、ふと思った。そうだ、映画館へ行こう。わくわくして――、と。
だが、ふと気づいた。近くに映画館がない、と。
[BOOK DATA]
「任侠シネマ」
今野敏
単行本:中央公論新社2020年5月25日 初版発行