京都に女王と呼ばれた作家がいた

仕事を失う恐怖よりも、
書かずに死ぬ恐怖が先に来て、筆を進めた。

友人であり、同世代の近藤等則が10月17日に亡くなった、と知ったとき、この本を読んでいた。この本で取り上げている女流作家とミュージシャンの彼とは、何の関係もない。

むりやり関係性をさぐるなら、作家は京都女子大、彼は京都大学、と同じ京都で学んだことくらいだ。それなのに、読了後、不思議な感覚を覚えた。それは作者の次の言葉に影響されたからだろう。彼女はこう書いている。

〝作家である友人が五十代の若さで酒で死んだ。

作家――という言葉を使いたいけれど、そこに躊躇いがあるのは、彼自身が小説家で身を立てようとし、小説を書きたい、書きたいと強く願い続けながらも、小説を書くことを怖がり、過去に何冊か小説を出したきりで、大量のプロップを遺して死んでしまったからだ。

小説に殺された、と思った。(中略)

無念としか言いようのない死だった。〟

近藤等則の死因はわからないが、酒好きだったことは確かだ。最近の写真を見ると、やせ細っているようにも見えた。

彼と何かやろう、と毎晩のように酒を飲みながら語り合っていたのは、もう二十年以上前だ。面白い企画もいくつかあった……と思う。いや、と思いたい……。

だが、何一つ形になることなく、いつしか会わなくなっていた。

しばらくして、偶然、恵比寿駅の改札口あたりで、

「梶原さん」

突然、名前を呼ばれた。近藤さんが笑顔を見せて、こちらを見ていた。

「元気でしたか?」

そう問いかけただけで、話をすることもなく別れた。このときは、また会える、と思っていた。

だが、この本の著者が書いていることを今回、実感した。

〝人はいつ死ぬかわからない。ある日、突然、死ぬかもしれない。〟

京都大学出の英才で、親の反対を押し切り、音楽の道へ進んだ近藤等則。翌日に黒田征太郎とのライブペインティングがあったというのに、突然、この世を去ってしまった。

得難い才能がまたひとつ消えた――。

話を戻そう。

本書は「ミステリーの女王」と呼ばれた山村美紗のことを書いたノンフィクションである。作者は京都に住み、京都の女の描き続ける女流作家、花房観音。

山村美紗の本を読んだことがなくても、彼女の原作であるテレビドラマを見た人は多いに違いない。死後20年経った今でも、BSやCSで再放送のドラマを毎日のように見ることができる。たとえば、それは「赤い霊柩車」シリーズであり、「女検視官 江夏冬子」シリーズなどだ。

昭和32(1957)年、山村巍(たかし)と26歳で結婚して、木村美紗は「山村美紗」となった。結婚3年目に長女・山村紅葉、その7年後に次女の真冬が誕生している。

美紗に小説を書くきっかけを与えたのは、夫の巍だった。

〝一九六三年(昭和38)、美紗二十九歳のときに、第九回江戸川乱歩賞に「冷たすぎる屍体」が、予選通過している。
このとき、長女の紅葉は四歳で、次女はまだ生まれていない。(中略)

巍は、美紗には小説の才能があると気づいていた。美紗が大事に持っていた、京城での小学生時代に「綴方子供風土記」に収録された美紗の作文を読んで、そう思っていたのだ。(中略)

巍は乱歩賞の応募要項を見せて、締め切りまで半年あれば書けるだろうと背を押した。そして美沙は筆をとる。〟

その後、江戸川乱歩賞で予選は通過するものの、候補作に選ばれるまでには7年もの時間がかかるのだが、本書の著者である花房は「応募を始めてから、この数年の間に、美紗の人生にとって大きな出会いが二つあった」と書いている。

二人とも作家の、松本清張と西村京太郎だ。

このくだりは、ぜひ本書を一読されたい。

知的で明るく話し好きな、美人の美紗に二人の作家が興味を持ったのだ。特に、西村京太郎と初めて会う場面の描写は興味深い。

〝京太郎は、ファンレターをくれた女子大生を待っていた。

けれど目の前に現れたのは、花柄の傘を差した着物姿の女性だった。美人ではあるが、女子大生ではない。三十歳は超えている様子だ。

戸惑う様子の京太郎に、美紗は勘違いをすぐに見抜いて「女子大生と思っていたでしょ。がっかりさせてごめんなさい」と笑う。

自分の期待を見抜かれ照れ臭くはあったけれど、京太郎は美紗に強く惹かれていった。〟

この出会いの時期を花房は「一九六五年か、一九六六年あたりであろう」と推測している。しかも「この頃は、まだ京太郎は美紗が人妻であることを知らなかった」と。

そして、美紗は昭和49(1974)年、江戸川乱歩賞の候補作となった「揺らぐ海溝」が「マラッカの海に消えた」と改題され、講談社から刊行される。四十歳を三つも過ぎていたが、昭和9年生まれに変えての作家デビューであった。これ以降、昭和9年が公式の生年となる。

翌年に刊行された2冊目の小説「花の棺」がベストセラーになり、美紗のもとには順調に執筆依頼が来るようになっていった。

5年後の昭和54(1979)年4月、「花の棺」がサスペンスシリーズ「京都殺人案内」第1作の原作として、テレビ朝日系でオンエアされた。

多くの作品がドラマ化された要因を花房は、こう分析している。

〝古いものと新しいものが、美沙の作品の中には混在し、伝統を描きながら、時代の最先端、流行を取り入れた。

また、京都には松竹と東映の撮影所があり技術者もいるので、映像的に映える撮影もしやすかったのだ。

山村美紗作品のヒロインの魅力と華も、多くドラマ化された理由のひとつだろう。〟

昭和61(1986)年、美紗は京都東山の元旅館を改装し、宇治より転居した。本館と別館がある旅館だったが、別館が京太郎の邸宅になった。夫の巍は「美紗に頼まれ」目の前のマンションに住む。

邸宅の様子と京太郎とのことを花房はこう書いている。

〝本館と別館は渡り廊下でつながれていて、美紗の住む本館から、京太郎の住む別館には自由に行き来することができる構造になっていたが、京太郎のほうからは、行くことはできない。

一階は台所や広いリビング、二階に美紗の仕事部屋があった。仕事部屋の入り口をはじめ、あちこちに、暗証番号式の鍵をつけ、度々美沙は、そのナンバーを変えた。推理作家としての遊び心か、書いている姿を誰にも見られたくなかったのか。(中略)

巍は、京太郎と隣りの家に住むと聞いたときは、戸惑いもあったが、ふたりがよく長電話をしているのは知っていた。

既に長者番付の作家部門上位にいる京太郎とコンビを組むのは、美紗にとって必要なことだった。京太郎を自分の盾にして、出版社への圧力にする。ふたりで編集者を京都に招き、もてなし、仕事につなげる。

今以上に売れるために、「同志」と隣同士に住む。

美紗は、ふたりで出版社と戦っていくつもりだった。〟

ここには一度、訪れたことがある。盟友の作家、吉村達也に案内されたのだ。だが、同じ推理作家で、京都に住む吉村達也は、邸宅を訪ねようとせず、外から見るだけにとどめた。これだけは心残りである。思い切って、訪ねてみてもよかった……。

ここから「美紗と京太郎の快進撃に拍車がかかる」と、花房は書いている。「東京から、編集者や出版社の人間たちは足繁く京都に通った」と。

一月には新年会、八月には誕生会、とパーティが開かれた。このときの様子は、担当編集者から聞いたことがある。豪華な景品がもらえても、決して楽しいものではなかった、という者もいた。

本書にも、その様子が詳しく書かれているので、興味のある方は読んでみるといいだろう。

ふたりの関係は「作家タブー」と呼ばれるものだった。ゴシップ誌「噂の真相」以外は取り上げるところはない。

出版社は、出せば必ず売れる作家に「NO」は絶対に言えないのだ。

この年から、山村美紗も長者番付の常連となる。まさに、山村美紗は、名実ともに「女王」になった――。

平成8(1996)年、西村京太郎は脳血栓で倒れ、神奈川県の湯河原で療養することになる。

美紗も相変わらず体調が悪く、東京で治療する目的もあり「八月二十六日から一ヶ月間、帝国ホテルのスイートルーム」に宿泊した。

そして、9月5日、その部屋で執筆中、心不全で息を引き取った。享年62歳。実年齢では65歳だった。

本書はこのあと「第六章・戦死、ふたりの男」、「第七章・京都に女王と呼ばれた作家がいた」と続く。

ここで、西村京太郎と夫の巍、それぞれの思いが語られていく。

山村美紗が亡くなって二年半後の平成11(1999)年4月から「週刊朝日」で、西村京太郎の小説「女流作家」の連載が開始された。

翌年に刊行された単行本の帯には「山村美紗に捧ぐ」とある。

そして、平成18(2006)年には、続編「華の棺」を出版。

「女流作家」連載時には「あくまでも小説です」と答えていた西村京太郎だが、平成24(2012)年には「だいたい本当の話です」とも答えている。

〝どこまでが真実で、どこまでが嘘なのか。
「あくまで小説」とはどう解釈すべきなのか。〟

私は、これについて多くを語る言葉を持たない。本書に書かれてあることをただただ受け止めるだけである。

平成12(2000)年、西村京太郎は70歳のときに、湯河原で知り合った10歳年下の女性と結婚した。

87歳のとき、大人の生き方Magazine「MOC(モック)」のインタビューでこう答えている。ちょっと長くなるが、興味深いところだけ引用してみよう。

〝僕が倒れちゃって、温泉治療で湯河原に来ていた時に、山村さんは最後、東京にいて、ホテルで書いていて死んじゃったんです。それで京都に帰ってもしょうがないなと、そのまま湯河原に来ました。山村さんが生きていれば、一緒に京都に帰っていたでしょうね。(中略)

「噂の真相」っていう雑誌に随分やられました。僕が山村さんと付き合ってるっていう根も葉もないゴシップでね。それがマンガみたいな挿絵で、どう見ても僕と山村さんなんだけど、名前を書いていないんだよね。(中略)

山村さんは長谷川一夫の姪で、いろんな人知っていますよね。山村さんのお父さんが京都大学の名誉教授で法律の先生。京都の弁護士さんとかほとんどお知り合いなんですね。人脈がすごくて、だから山村さんのお墓は泉涌寺にある。泉涌寺ったら天皇陛下のお墓があって、そこになぜか山村さんのお墓があるんです。どう考えてもわかんない。山村さんのお墓は高いところにあるから、お墓参りには行けないんですよ。(中略)

作風は全然変わりましたね。明るくなった。人が死なないのは、湯河原に来てから初めて書いたかな。京都にいる時は、京都をずっと書きたかった。でも山村さんに止められて書けない(笑)。鬱屈したものが作風に出ていたんじゃないかな。書きたかった舞台は京都と北海道です。京都は長年住んでたから特にね。〟

西村京太郎は90歳になった現在でも、旺盛な執筆活動を続けている。これは実に、驚きでもある。

平成20(2008)年、山村巍は80歳で再婚した。

そして、平成28(2016)年、京都新聞のインタビューで、初めて美沙と西村京太郎の関係に言及した。「地下通路はなかった」と疑惑を否定したのだ。

山村美紗が好きな作家だったわけではない。それなのに、この「京都に女王と呼ばれていた作家がいた」を読んでいる自分がいた。不思議なことだと感じている。

山村美紗に会いたい、と思った。

会っておけばよかった、と後悔している。

近藤等則に会いたくても、彼はもういない。

本当に、後悔している。

共通の友人と、彼のことを語り明かそうか。

もちろん、酒を飲みながら。

本棚から、一冊の本を手にした。カバーには二人の作家の名前がある。赤字で山村美紗、黒字で西村京太郎、と。

[BOOK DATA]

「京都に女王と呼ばれた作家がいた
花房観音
単行本:西日本出版社2020年7月26日 初版第一刷発行