海老フライとタルタルソースは亭主の直伝ですから、昔通りの自慢の味です
久しぶりに面白い本を読んだ。初めて読む作家。山口恵以子。1958年生まれとあるから、歳だけでも何故か親しみを感じてしまう。
暮れに本の整理をしていて見つけた本である。どうしてすぐに読まなかったのか。悔やむほどに面白かった。というより、こんな食堂で食べてみたい、と思った。
未曽有の体験をしている今、外での食事をまったくしていないわけではないが、以前ほどはできていない。
何をおいても、自粛である。
粛とは、どうも嫌な字だ。いま、改めて調べてみた。旧字は「肅」と書くらしい。辞書を引いて、いま、初めて知った。
口に出して、ずいぶん使っているような気がするが、いざ書くとなると、PCを使っていない昔だったら書けなかっただろう。
字書で調べてみると、いろいろな発見がある。
部首は「聿(ふでづくり)」で、この粛だけが載っていた。聿(筆を手に持ったようす)と淵(えん/水が溜まっている崖っぷち)の右の部分を合わせた会意文字。筆を持って崖っぷちに立つとき、身が引しまる様子を表す、とある。
意味は①引きしめる。厳しく正す。(例)粛清、厳粛。②つつしむ。身を引きしめ、かしこまる。(例)宿善、自粛。
そうか。自粛とは、字書には「自分から物事を控えめにすること」とあるが、自ら身を引きしめ、かしこまることか。
かしこまるだよ、漢字で書くと「畏まる」。
この「畏」の字源はすごいよ。大きな頭をした鬼が手に武器を持って、脅すさまを描いた象形文字。気味悪い威圧を感じること。
コロナウイルスに脅かされて、自宅謹慎することか……。
いや、待てよ。
「自粛、自粛」と言っているのはコロナウイルスじゃないよ。誰だ?
支持率が下がりっぱなしのあの人と、厚塗りのおばさんが「自粛だ」「ステイホームだ」と、〇〇のひとつ覚えみたいに言ってくれている。自粛しなければ悪者みたいな言われようだ。これじゃあ、なんとも嫌な気分になるのは仕方ないのかもしれない。
閑話休題――。
こんなときだからかもしれないが、この「食堂のおばちゃん」みたいな店がそばにあったらなあ、と思ってしまう。
小説の「おばちゃん食堂」は、東京都中央区佃(つくだ)にある。昼は定食屋、夜は居酒屋である。まさに、ご近所に一軒あってほしい店だ。
店は、姑の一子(いちこ)と嫁の二三(ふみ)が二人三脚で仲良くやっている。
一子は82歳。かつて「佃島の岸恵子」と謳われた美貌は今も健在だ。岸恵子なんて、今の若者は知らないだろう。それでいいのだ。
思わず、昔のことを思い出した。岸恵子の家は、横浜の白楽にあった。東横線の隣駅、妙蓮寺に住んでいたので、そのあたりに一度だけ行ったことがある。
明治33(1900)年創立の横浜第一高等女学校を卒業。ここには、草笛光子もいた。昭和25(1950)年、男女共学になったのを機に、神奈川県立平沼高等学校と名前を変えている。卒業生に、斎藤安弘さんの名前を見つけて、驚いた。
ニッポン放送のアナウンサーで、深夜放送「カメ&アンコーのオールナイトニッポン」のパーソナリティだった人だ。懐かしい名前を見つけて、思わず嬉しくなった。
モーニングショーの羽鳥慎一も卒業生だと知ったが、あまり心は動かなかった。
どうも話が横道にそれてしまう――。
「はじめ食堂」という名前の店で、一子の旦那さんが生きているときは洋食屋だった。息子の高(たかし)が一流商社を退社して店を継ぐが、そのとき洋食屋ではなく、昼は定食屋、夜は居酒屋のかたちになる。
その前年に奥さんを癌で亡くしていた高と二三が妙な成り行きで結婚するが、その高が10年前に心筋梗塞で病死。53歳の若さだった。
一子と高の苗字は「一」と書いて「にのまえ(二の前)」と読む。だから、結婚するとき、二三は悩んだ。漢字で名前を書けば「一二三」になってしまうからだ。姑は「一一子」で悩んだ、と話す。
そんなエピソードが冒頭で語られている。なんとも、できすぎた話だが、作者の読ませる筆力に驚いた。
作者自身が元・食堂のおばちゃんだったという。作家デビューは2007年だが、社員食堂に勤務するかたわら執筆した「月下上海」で松本清張賞を受賞した。それが2013年。そして、本書の初版が2015年。ここから、立て続けに新作を発表していく。
この「食堂のおばちゃん」シリーズだけで、今年の1月に第9弾が発売された。その他のタイトル本もあって、この数はたいしたものである。
このシリーズはすべて、短編連作である。第1弾の目次は、第一話・三丁目のカレー、第二話・おかあさんの白和え、第三話・オピャジの焼き鳥、第四話・恋の冷やしナスうどん、第五話・幻のビーフシチュー、という構成。
巻末に「食堂おばちゃんのワンポイントアドバイス」として、本書中に出てくる人気料理のレシピ(著者自らが作る)が掲載されているのも嬉しいところ。思わず、作ってみたくなるほどだ。
「心と体と財布に優しい」食堂は、下町人情小説の舞台としては申し分ない。
コロナ禍の鬱を吹き飛ばしてくれる一冊だった。残念なことはただ一つ、こんな食堂がどこにもないことだ。
さあーて、第2弾を読むとしようか――。
なに?「恋するハンバーグ」だ、と。これは、読むのも作るのも楽しみになりそうだ。
[BOOK DATA]
「食堂のおばちゃん」
山口恵衣子
単行本:角川春樹事務所2015年8月7日 第1刷発行
文庫本:角川春樹事務所2016年12月18日 第1刷発行