誌面はちょっとキザですが、悪くない雑誌だと思います
久しぶりに原稿を書いている。本を読んでいなかったわけではない。書きたいと思うような本がなかったわけでもない。ただただ、書く気が起こらなかっただけだ。
2021年になって、いきなり2回目の緊急事態宣言――これに、まいってしまった。ともすると、先行きが見えない不安感に押しつぶされそうになってしまう。
そんなとき、本棚の奥で懐かしい本を見つけた。
それが、この「金沢望郷歌」だ。手元にあるのは文庫本で、奥付を見ると1992年4月10日とある。
およそ30年前の本が突然、目の前に現れたのだ――。
著者は「あとがき」にこう書いている。
一気に読んだ。
驚いたことに、再読ではなく、初めて読む小説だった。まさしく、本棚の奥に眠っていた文庫である。
この文庫本が発売された当時の私は42歳で、人生の岐路に立っていた。プライベートでも仕事でも。
とにかく夢中になって、本を作るしかなかった。編集者、構成者として作った本は本当によく売れた。売れれば売れるほど、酒もよく飲んだ。競馬場へも毎週通った。
振り返ってみれば、その時が生まれて初めてのひとり暮らしだった。
そんな時期に発売された本だから、買ったけど読む時間がなかったのだと思う。
この小説は連作長編で、最初の「夏の晩夏」は金沢の街でのタウン誌再建物語だ。著者はまず、タウン誌について熱く語る。
あの有名な<ニューヨーカー>も、アンダーグランド風の<ヴィレッジ・ボイス>も、ともにその一種であるとする見方もある。そこまで範囲を広げると、アメリカのジャーナリズムそのものが、各都市に根ざしたもので、<シティ・マガジン>はむしろその本流であるとも言えるかもしれない。
わが国では、それとやや趣を異にしたかたちで、<タウン誌>が生まれた。大正時代には大阪で<大大阪>という雑誌が出たし、昭和九年に創刊された<神戸ッ子>は、<神戸っ子>と名をかえて現在もリトル・マガジンの名門として全国的に有名だ。
かつて一時期、私たちを夢中にさせたのは、<新宿プレイマップ>だった。一九六〇年代の幕が降りる頃に登場したこのメディアによって、<タウン誌>という言葉が広く市民権を持つようになったとされている。〟
私自身、1970年代の初め、大学時代に「ドロップイン伊勢佐木」というタウン誌でアルバイトをしたことがある。
桜木町から歩いて10分くらいの野毛にある古い、小さな事務所だった。
自分の書いた原稿が活字になる経験をしたのも、このタウン誌だった。広告取りに伊勢佐木町の店をまわったりもした。
アルバイト料は安かったが、仕事は楽しかった。近くの居酒屋「武蔵屋」で過ごす時間は格別だった。
この物語の主人公・冬木が作るタウン誌は、横浜のそれとはだいぶ趣が違う。
冬木はテレビ局を退社して二十代の終わりに故郷の金沢に帰り、<海市>というタウン誌を創刊する。すでにタウン誌は何誌かあったが、幸運なことに、金沢在住の作家が気に入ってくれたことで、スポンサーまで紹介してもらう。
ただ、冬木の戦略は「広告よりも雑誌そのものの売上で維持できる雑誌」という、当時のタウン誌の方向とは正反対だった。
それでも、いくつかの幸運が重なり、定期購読者が増えていき、ユニークな地方紙として知られるようになっていく。
しかし、創刊八年目、冬木が四十歳になった時期に、雑誌の経営面が苦しくなりはじめる。
そこに救いの手を差し伸べてくれたのは、大学時代の友人だった。
友人は、伝説のスーパー・エディターを編集長に迎える、と言う。
地元のタウン誌の編集長に聞くと、その男は「地方のPR誌やタウン誌の救援に、短期間だけ登板すると、奇跡的にその雑誌が息を吹き返す」というのだ。同時に、悪い噂ばかり流れているとも教えてくれた。
その男は、約束の日に<海市>編集部にやって来た。
「狭間鋭二といいます」と名乗る、もの静かな態度には、聞いていたような無頼な人物の印象はまったくない。
その晩、浅野川ぞいの旧主計町(かぞえまち)にある、なじみの店で飲みながら話した。狭間は<海市>は以前から知っていた、と言って続けた。
「誌面はちょっとキザですが、悪くない雑誌だと思います」
その時の冬木と狭間の会話が面白い。
私の率直な態度は、狭間にとっていささか意外な印象をあたえたようだった。
「こんな趣味的な雑誌をやってらっしゃる方ですから、もっと気難しい人かと思ってましたよ」
と、彼は言った。私は笑って答えた。
「いや、ただやけっぱちになってるだけのことさ。でなければ、どうしてきみなんかに雑誌をまかせたりするもんか」
「たしかにそうですね」
狭間は私の言葉に傷ついた風情も見せずに、小声で囁くように言った。
「ほんとに私に<海市>をあずけてくださるんですか?」
「そう決めたんだ」
「ひょっとしたら、あなたの雑誌をめちゃくちゃにするかもしれませんよ」
「かまわない」
狭間はサングラスの向こうから、私をじっと眺めてつぶやいた。
「変な人だな」
「きみはまともかね」
と、私は言った。彼は苦笑して腕にとまった蚊を手で追った。(中略)
私の気持ちは狭間にも伝わったようだった。
「わかりました。<海市>をあずからせてもらいます」
彼はかすれた声できっぱりと言い、ビールのコップを目の高さにかざした。
「たのむ」
私もコップをあげ、カチリと音をたてて彼のコップに打ちつけた。〟
引用が少し長くなってしまったが、こういうところがこの作者のうまいところだ。
狭間は、有名な歴史小説家に原稿を依頼。しかも、連載小説だ。このくだりも面白い。
作家は腕組して狭間英二の顔をみつめた。
「つぶれかけているタウン誌が、私に一枚十万円の稿料を払うというのか」
「はい」
「その金額には驚かないが、その裏にある狭間流の軍略には興味をそそられるなあ。いつもきみは奇抜な話をもちだしては、私を手玉にとってきた。しかし、手玉にとられるのも面白くないわけじゃない。聞こうじゃないか。こんどの仕掛けを」〟
「十分だけ話そう」と言っていた作家が「もう十分だけ待ってくれ」と用事を済ませたあとで話を聞くことになる。
狭間の戦略は、全国の百誌のタウン誌に同時に掲載することだった。各誌がそれぞれ一枚につき千円の原稿料を負担。二十枚だから二万円。これで作家の原稿料をまかなうというわけだ。
月二万円ならタウン誌でも無理なく出せる。しかも、一市一誌を選ぶ限り、各誌の誌面は重複しない。
さらに、連載が完結したら単行本の発売を出版社と契約する。企画編集料を五パーセントもらい、各誌に編集経費として分配。各誌がそれぞれの都市で書店と組んで、独自のキャンペーンを展開すれば、販売の援護射撃にもなる。
これだけなら、それまで通信社がやってきた仕事と本質的にはちがわない、と言う作家に、狭間はこう言い切る。
(中略)
「百冊の雑誌の、百通りのさまざまな誌面をずらりと並べて、眺めてみたいと思われませんか。それぞれの街のグラフィック・デザイナーや、レイアウトマンが誌面を構成する。書家が題字を作る。画家や無名のイラストレイタ―が挿し絵を画く。一つの小説を土台に、何百という個性が、地方色が、才能が、全国に展開するんです。おもしろいじゃありませんか、先生」
「うん、おもしろい」〟
このくだりを読んでいて、このタウン誌を見てみたいと思った。そして、本当に五木寛之がタウン誌を作ったら、ぜひ読んでみたいとも思った。
もちろん、それは夢物語だが、小説の中でもこの企画は実現できずに終わってしまう。
ここが五木寛之の小説手法のひとつである。
物づくりの「志」を何より大切にしているのだ。
そして、連作小説の最後の「秋の憂歌」で、冬木に<海市>を年四回の季刊誌として復刊させる――。
この連作小説の一作目「冬の晩夏」は、初出が「オール讀物」昭和62年10月号である。
この1981年に出版された「タウン誌全国カタログ」には179のタウン誌が紹介されているから、その頃はまだタウン誌が全国でがんばっていたのだろう。
ただ、私がアルバイトをしたり、原稿を書いたりしていたタウン誌「ドロップイン伊勢佐木」はすでに廃刊になっていた。当時の人たちとも没交渉だった。伊勢佐木町もずいぶん変わった。あの居酒屋「武蔵屋」も今はもうない……。
そんなことを思い出しながら、一気に読んだ。
やはり「この作家が好きなんだ」と改めて思った。
物語の面白さを教えてくれた作家の一人だ。この作家の本と出会わなければ、編集者にならなかったかもしれない。
作家があまり小説を書かなくなって久しいが、その間は「大河の一滴」をはじめとする人生を語るエッセイ集を何冊も出版している。
早速、アマゾンとブックオフで五木寛之エッセイ本を買い込んだ。このコロナ禍の時代に立ち向かっていく元気だけでなく、サムシングエルスをあたえてくれそうだ、と思ったからである。
これを書き終えたとき、松山英樹がマスターズで優勝したと報じられていた。たいしたものだ。ゴルフはもう10年以上前にやめたが、テレビ観戦するのは嫌いではない。
ただひとつ、松山選手に英語でも優勝スピーチしてほしかった、と思った。通訳を入れず、まず日本語で話し、それを自ら英語でも話す。そんな松山英樹を見てみたい。
[BOOK DATA]
「金沢望郷歌」
五木寛之
単行本:文藝春秋1989年4月30日 第1刷
文庫本:文藝春秋1992年4月10日 第1刷