フランス座

「よし今度は自分で書こう」って決めた。

ある雑誌(「文藝」2019年4月増刊)で、この一文を読んだ。語っているのは、ビートたけし。

この「フランス座」というのは、浅草にあったストリップ劇場。ビートたけしが芸人になりたくて、エレベーター番から始めた、と言われていたところである。

著書を三冊買って、最初に読んだのは「フランス座」。一気に読んだ。出だしから、驚かされる内容である。引用しよう。

“俺はただエレベーター番のアルバイトに応募しただけで、そんなフランス座の歴史をほとんど知らないで入ってしまったのだが、ここ此処に来るからにはコメディアン志望だろうと思われたらしい。”

これまで自著で語ってきた内容をあっさりと否定している。本人にとっては、それほどたいしたことではないのだろう。

1972(昭和47)年のころのフランス座のショウは、踊り子8人とコントで構成されている。そこに、みんなが「師匠、師匠」と呼ぶ男がいた。深見千三郎である。

深見の師匠から、コメディアン志望の若者と思われたところから、たけしの人生は大きく変わっていく。たけしはこう書いている。

“「おいタケ! ちゃんとタップやってるか?」(中略)
師匠に「タケ」と呼ばれるうちに俺は芸人になりたいんだと刷り込まれていた。(中略)
「一人エレベーター番雇うから、タケは舞台の進行と役者をやれ!」”

そして、師匠から「俺が昔やってたネタ教えてやる」と言われるまでになり、師匠とコントをするようになっていく。とてもテレビでできるようなコントではないが、勉強になった、と本人は書いている。

ある日、兼子二郎がコンビを組んで、たけしが付けた漫才のコンビ名「ツービート」で松竹演芸場に出ていた。ネタはつまらなくてもお客が笑うのを見て、たけしは「売れてみたい」という気持ちを抑えられなくなり、師匠のもとを離れ、漫才の道へと進んでいくのだが……。

これまでの著書「浅草キッド」(太田出版1988年)とほぼ同じ内容が書かれているのだが、印象はまるで違う。ぜい肉を落とし、自分の納得のいくものに仕上げた結果であろう。

「限界まで動けるうちに何かをやり続けたいよね」と雑誌で語っているビートたけしだが、小説を書き続けると同時に、もしかするとコントをやりたいのではないだろうか――ふと、そう思った。

かつて一世を風靡した、浅草の軽演劇のようなものを後世に伝えるのは、ビートたけししかいない。東京喜劇を上演し続ける三宅裕司の舞台を新橋演舞場で見て、その思いを強くしている。

本著に出てくる居酒屋「さくま」には、仲間とよく行っていたなあ。浅草寺病院の斜め前にあって、仲の良いご夫婦でやっていた。1977年ころだから、たけしさんとは時代的に少しだけあとだった。

ちなみに、ストリップをはじめて見たのは、今だから言えるが、高校2年生の時だ。横浜の黄金町にある「横浜セントラル劇場」だった。ここも「フランス座」と同じように、1966(昭和41)年のころはストリップの幕間にコントを演じていた。

だが1970年代に入ると、ストリップはもうショウではなく、どんどん過激になっていった。あっという間に幕間のコントはなくなり、全スト(全裸になるストリップの略か?)と呼ばれる関西ヌードが全盛になっていく。

船橋若松劇場で、一条さゆりのロウソクショーを見たときの驚きは今でも忘れられない。
幕間コントを最後に見たのは、渋谷にある道頓堀劇場でのコント赤信号だ。1980年代のはじめだったと思う。ここで初舞台の清水ひとみを見たことが、1988年に出版された彼女の「狂った果実」(扶桑社刊)に生かされている。ライター原稿の修正を頼まれ、本人に会うことなく書き上げた。

笑福亭鶴光の大ヒット曲「うぐいすだにミュージックホール」の宣伝でストリップ劇場の舞台に立ったのは、1975(昭和50)年のこと。

いやはや、とんだストリップ体験を語ることになってしまった。好奇心旺盛だった時代が懐かしい。70歳の好奇心はどこに向くのだろうか。楽しみだ。

[BOOK DATA]

「アナログ」
作者:ビートたけし
単行本:書き下ろし(文藝春秋20181215日 第一刷発行)